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「我が人生 我が道」金景錫(上)

【「麦峠」】
 私は、一九二六年四月二七日に韓国の南部の慶尚南道昌寧郡昌寧で、金家の三男二女の次男として生まれました。先祖は両班という、文武の官僚に任じられた金持ちの特権的身分だったようですが、私の育った頃は経済的基盤はありません。父親はお酒のみで、母親の農業と六歳年上の兄のわずかな収入で生活をつないでいる状況でした。
 昌寧はかつての新羅と百済の境界地に位置します。人口三万人の郡の中心地でしたが、特別な産業も港もありません。鉄道もなくへんぴな所で、ほとんどが農家でした。
 一九一〇年に朝鮮総督府が設置され、土地調査事業が本格的に開始されて、何月何日までに土地を登録しなければ政府のものになるというかってな法律が作られました。「自分の土地だからそんなことしなくても」と思っていた、あるいは何も知らなかった農民たちの先祖伝来の土地は紙切れ一枚で奪われ、ほとんどが自作農から小作農になりました。
 私次が少年の頃は産米増殖計画(一九二〇年)に基づく米の供出というのが大きな負担でした。面識人(村役場の職員)が畑に行って農作物を全部調べます。稲作が五石とれると判断したら「おまえは五石を政府に納めよ」と決める。自ら作った米を食べることはできず、供出米は安く買い取られて高い配給米を買わされる仕組みでした。
 農民たちの生活は、麦の刈り入れ前にはほとんどの食料が途絶える状態。今年は生きてこの期を越せるだろうか、これを「麦峠」と呼んでいました。
 何年も雨が降らず日照りが続いたため、少なからぬ人々が開拓団という名で家族ぐるみ「満州」へと追いやられました。そこへ行った人はまだましな方で、年寄を抱えた人などは行けない。それで近くの日本に出稼ぎに行き、炭鉱や工事現場で働きました。日本に行くには警察の渡航証明が必要ですが、“親日”であることが要件です。しかも労働力となる本人のみで家族はだめ。残された家族はわずかな送金で飢えをしのぐ生活でした。
 昌寧はそういう土地柄でした。

【「無言の逆らい」】
 学校は地元の昌寧小学校です。校長は山口県出身の亀崎、担任は鹿児島県の山下という日本人でした。先生はゲートル巻きの戦闘帽姿。私たちは毎朝、「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌わされました。
 校内には小さな神社が作られ、朝夕、神社参拝。皇居の方角にある神社に最敬礼します。やらなかったり、そっぽを向くと殴られました。しかし私たちは皇居や神社が何たるものかわからない。朝鮮人の先生に「あの神社の中に何が入っているか」と聞いたら、「三種の神器の鏡ぐらいだろう」と。鏡に向かって、朝に夕に何故お辞儀しなければならないのかと思いました。
 覚えなければならなかったのが「朕思うにわが皇祖高宗」といった教育勅語です。学校ばかりでなく町の中でも、日本人の先生に見つかると「おい、お前こっちに来い。教育勅語言ってみろ」とやられます。できないと大変なので誰もが空覚えしました。
 教科書には天照大神が天の岩戸を開けて光が射し込む挿し絵が載っていて、天皇は万世一系だと教えられました。担任は「天皇は神である」と常々言っていました。
 ある日、先生が「大きくなったら何になる」と聞いたことに、友達の一人が「私は天皇になる」と言ってしまった。「おそれ多くもけしからんことを」と怒られ鞭を打たれ、しばらくは先生たちからいじめられたようです。
 私は学校では日本語、作文、算数が良かったと思います。それでしばしば教壇に上がらされ、発表したり解いたりすることがあります。ところが話しているうちに、つい「一升ビンに水二升は入らない」と言って日本式の押し付けを批判する。そのため教室から連れ出され正座させられました。
 担任はまるで犯人でも捕まえたかのように横にいて、他の先生が通るたびに私を殴ってみせます。通りすがりに「こいつが例のあいつか」と言ってはげんこつをする先生も。日本人と違って私たちにとって正座は拷問のようなものです。日本人がやって来てどうしてこういじめるのか、私たちの祖先がどんな悪いことをしたというのか、どうしてもわかりませんでした。
 小学校は二種類あって、私たちは普通小学校。日本人の旅館や新聞支局の子どもたちは尋常小学校に通っていました。秋の運動会は一緒にやりますが、絶対に負けるなという意識が強く、いつも大喧嘩になりました。サッカーの試合ではボールを蹴るより相手の向こうずねを蹴る方が多かった。誰かが教えたわけではない、無言の逆らいでした。

【「鬼童」】
 村全体でもサッカーが盛んでした。とはいってもお金がないので屠殺場に行って牛の胃袋をもらってくる。空気をつめて膨らまし、ひもで縛ってボール代わりに蹴り飛ばしていました。結構割れないものです。専門の靴もないので、わらじを履いてやりました。
 試合は十一人ではなく数十人でやるので、敵味方もわからない。そんなことはどうでもよく、とにかくボールを蹴飛ばしたほうが勝ち、というものでした。
 年に数回の村の市には地方から民族衣装を着て、朝鮮伝統のちょんまげを結った人々が集まってきます。すると日本の巡査が捕まえて「非国民だ」と言い、その場で髪の毛を切り落としました。朝鮮には、髪といえどもおろそかにするなという儒教の教えがあります。髪を切られることは大変な恥辱だと、中には自殺した人もいました。
 着物は、男性も女性も白い服を着るのが正装です。市に白い服を着てきた人々に、黒い塗料の付いたホウキで汚してまわる日本人巡査を目撃しました。子どもなりに悔しい思いをしました。朝鮮民族の表れは一切許されなかったのです。
 私たちが通った小学校は義務制の尋常小学校とは違い、お金を徴収されます。六十銭の授業料と一銭の国防献金です。六十一銭を払わなければ、通信簿がもらえない。なんとか払って手にした通信簿をみると、私のことが「鬼童」―鬼の子と書かれていました。
 ある時、父親を呼びだす手紙を学校からもらいました。渡してもしょうがないと、封を開いてみました。「鬼童について相談があるからちょっと来い」と書いてある。先生には、父は忙しいとか病気だとか二、三回ごまかしているうちに、ばれました。罰として掃除道具を入れる教室の床下に入れられたものです。他の子をよく殴る、言うことをきかない、それでいて勉強はやる。手に負えない奴だと見られたのでしょう。
 しかし、私たちをかばってくれた先生もいました。確か近藤という先生だったと思います。家に来い、とよくかわいがってくれました。羊かんやあめ玉などくれました。その先生は数学なんかもすぐ解いて実力のある人。どんなことがあっても生徒を絶対殴ったことのない先生でした。
 学校には朝鮮人の先生もいました。朝鮮語を教えていた先生でしたが、授業中、警察がやって来てみんなの前で連れ出されました。そのまま帰ってこないので後で聞いたら、縄で縛られて連れて行かれたらしい。その先生、実は解放後に刑務所から出て国会議員にもなった人でした。

【「奪われたことば」】
 野蛮な植民地政策は、南次郎という人が第七代朝鮮総督になった小学校三年生の頃から激しくなりました。総督は歴代、軍人です。南は時の陸軍大将で関東軍司令官でもありました。
 「皇国臣民の誓詞」というのが制定され(一九三七年)、「一、私どもは大日本帝国の臣民であります」。これをやらないとお米や麦やゴム製の靴など配給されない。配給がないと生活ができないので、誰もが無理やり覚え込みました。食器は真ちゅう製ですが、これは砲弾にするといって全部持って行かれました。
 正月を前にして貧困底をついて、何も買えない。せめて正月の朝ぐらいはお米をたくさん出さなくてはと、母さんは一張羅の晴れ着を日本人の質にそっと入れ、三円とか借りてきたようでした。
 小学校五年頃になると、それまでは希望すれば教えていた朝鮮語の授業もなくなりました。学校ではもちろんのこと、家に帰っても朝鮮語を絶対に話してはいけないと言われました。「日本語がわからない父さんと話すときはどうするのか」と聞くと、「それでも日本語を使え」と。
 小さな罰金札を各人二十枚持たされます。もし話の途中で朝鮮語が出たら一枚ずつ取り上げます。中にはたちの悪い友達もいて、私の家の前で名前を呼ぶんですね。こっちは安心して「うーん」というと、「うーんと言うのは朝鮮語だ」といって札を取り上げる。小さい子ども同士が相互監視するシステムが作られました。
 そのうち算数・理科・国語などの授業もなくなり、近くにある農作物の実習地に行って麦や芋を作ったり、人糞を担いでいって撒いたりするようになりました。
 私の学校には卒業後、続けて通える二年制の農業補習学校があります。そこの先輩たちが、日本人の先生があくどいことをするから学校を辞めると、今で言うストをやった。私は、迷惑な話ですが、学校から離れた場所に逃げて遊んでいた先輩たちに見込まれ、使い走りです。そのことでまた、先生からにらまれて、殴られました。
 「独立軍が現れるかもしれない」「大きくなったら独立軍に入るんだ」と言っていた子もいました。独立軍は、鉄砲を担いで日本人と派手に戦いをやるので羨望の的になっていたようです。
 父さんから聞いたおじいさんの話も記憶に残っています。一八九五年に朝鮮の皇族の閔妃が日本兵に殺されて焼かれるという悲惨な事件があった。
 「そんなことがあってたまるか」と、おじいさんは嘆いた。白い喪服を着て、竹づくりの白笠をかぶって、南からソウルまで歩いていき、泣いてお悔やみをしたということでした。

【「金城」という名】
 父さんは「書生」でヒゲをはやした硬骨漢でした。私たちを集めて「お前たちは新羅の王様、敬順王の末えいに当たるから、行いを正しくし、いずれわが国の王様が統治する時までみっちり学問を仕込んでおくように」と言いました。村の金持ちたちには「お金だけが人生ではない」と言っていました。国防献金など出して威張っていた人たちからも「あの人にかかったらかなわない」と見られていたようです。
 父さんはカラスに向かって「こっちに来て酒を飲んでいけ」と話しかけるほど酒の好きな人。見識はあっても物持ちではない、収入のない貧乏書生でした。いわゆる両班階級のなれの果てが父さんの現実の姿であったと思います。
 私が十四歳、小学校を卒業する頃です。「氏」を戸籍に記載するため、朝鮮戸籍の記載方式を改定する朝鮮総督府令が出されました。創氏改名と呼ばれているものです。
 父さんは抵抗しました。韓国の家族制度は、日本のように同一戸籍の家族集団を示す「氏」というものはなく、一族の先祖の発祥地名と男系血族系統を示す「姓」による親族集団によって構成されています。そこに「氏」が入ってくるわけですから、家族制度に異変が起こることになる。大変なことでした。
 それでも結局変えざるをえなくなり、父さんは故郷の親族みんなで話し合って「城」という氏を創ることにしました。慶州は昔、月城(ウォルソン)と呼ばれていました。その一字をとったものです。これも抵抗の表れでしょうか。
 以来私は、「金城(かねしろ)景錫」という名前に変えさせられた。悔しかった。どうせなら、野良犬が連隊長になっていく漫画『のらくろ』が好きだったので、そんな粋な名前にでもと思ったものです。
 面長(村長)は「頑固な金が姓を変えたぞ、みんな習え」と村中言って回ったそうです。嫌で変えなかった人、無知で変えなかった人も「あの人が変えたのだからしょうがない」と。
 李さんは字の上の木を使い村をつけて「木村」という名前になった。金さんは田や山や川をつけて「金田」「金山」「金川」になりました。日本が作った戸籍には金を消してそこに金城と簡単に入れましたが、それは彼らの勝手で、何百年続いた私たちの家系図はそのまま残しました。
 私は、おじいさん、父さんと村一番の「反日不逞鮮人」の環境の中で育ったようです。

【「尽くした母さん」】
 父さんが収入のない生活だったので、ある金持ちの人が「それじゃ困るだろう」と田んぼを小作するよう言いました。しかし父さんは神様のような存在、結局、母さんに小作の仕事をやらせました。
 父さんは兄貴を、次の世代を継ぐ者だからと学校には行かせず、幼い時から漢字の塾に通わせました。「両班の家には学者がいなければだめだ」と。
 食事をとる時も父さんと兄貴が一緒で、石で作られた膳にご飯を乗せて食べました。おいしいものはみんな兄貴に食べさせた。待遇はすばらしいものでした。母さんや私たち兄弟は残り物を地べたにおいて囲むようにして食べました。
 私たち兄弟はみんな三歳違いです。私が十四歳の時、兄貴が二十歳で姉さんが十七歳、妹は十一歳、弟は八歳。みんな育ち盛りなのでおなかが空く。ですから母さんは、よく生きていたと思うほど自分はほとんど食べませんでした。
 部屋は二つありました。台所の方で薪を炊いて煙を床下に通し、外へ排気するオンドル部屋です。しかし、今のように暖かいお湯を通すものとは違います。昌寧は冬になると冷え込んで大変寒いところ。母さんは私たちの布団の端を押さえるようにして、自分は何も掛けずに部屋で見守ってくれました。
 父さんは夜中でも酒を買ってこいと言いつけます。母さんはすぐ飛び出すのですが、お金がない。知り合いに買ってもらって、あとでその家に行って仕事を手伝っていたようです。
 父さんが外でお酒を飲んでいる時、母さんは私たちを寝かせて、泣いていました。夜中、ふと目を覚ますと、泣いているのをよく見ました。母さんは、夫のため子どものために自分を犠牲にする、尽くすことを本分とするような人でした。
 小さいころ、本を読んで汽車というものを知り、汽車に乗ってどこか行ってみたいといつも思いました。寝てても汽車の走る音が聞こえてくるようでした。それである日、母さんにねだって小遣いをもらい、馬山(マサン)に行ったことがあります。でも、旅館に泊まるお金もないし、淋しくなってその日のうちに家に帰りました。
 母さんは私にとっては、どんなことを言っても怒らないやさしい人でした。父さんが怖い存在だったので、母さんまで恐かったらそりゃあ大変だったでしょう。

【「留置場の父」】
 父さんは戸籍から兄貴を外し、私を長男に見立てました。一九三八年に「国家総動員法」、三九年に「国民徴用令」が発動され、ものすごい勢いで動員が必要とされてきます。父さんは、長男である兄貴を軍隊に入れたり徴用に行かせまいと、わざと籍から外したのでした。
 ところが、村の区長がこれを警察に告げ口しました。父さんは日頃から「なぜ日本がわが国に入ってきて大きな顔をして歩いているのか、けしからん」と、当時の朝鮮統治に反対する発言をおおっぴらにやっていたんです。
 道知事は、ことあるごとに治安維持法を持ち出して取り締まっていました。父さんも、「けしからぬ不逞鮮人だ」と拘束されました。二十九日間は警察署長が自由に拘束できます。よく捕まって留置場に入れられました。
 私は日本語ができたので、ある日、父さんに会えるよう留置場の当直の日本人巡査に非公式に掛け合いました。巡査も「小さいのに日本語がうまく話せるものだ」と、妙に感心して会わせてくれました。
 木の柵の奥の方で縮こまっている父さん。その痛々しい姿に小さな胸も衝撃を覚えました。父さんはお酒を飲んでは言いたいことを言っていたが、それが何の罪になるというのか、不思議でなりませんでした。
 父さんに「不逞鮮人」というラベルが貼られると、学校での日本人の先生の態度も変わってきます。いろんな所でいじめられました。先生からはいじめられ、帰ってからはいつも父さんに怒鳴られ、不満だらけでした。汽車に乗って都会へ出る夢をよく見たのもそのせいでしょう。
 小学校を卒業してから都会に出てもっと勉強したかったのですが、貧しい生活ではそれもかなわない。それならと、卒業後、遠くに行けるチャンスのある自動車会社に勤めました。当時は木炭自動車ですが、私は車の掃除をしたり木炭を入れたり、助手として働きました。
 私は日本という所にも、うすうすながら関心を持っていました。田中絹代の『愛染かつら』を観て泣き、『大石内蔵助』『森の石松』を読んで意気に感じました。田舎には日本に出稼ぎに行っている人が多く、その人たちへの手紙の代筆など頼まれてやっていたので、近くに感じました。もちろん学校の日本人の先生や巡査は嫌いでしたが、実際はどんな所か興味があったのです。

【「兄貴の身代わり」】
 戸籍から兄貴を外したという理由で、父さんは留置場に結局四か月間ぶちこまれました。治安維持法によって警察署長が二十九日間留置するのですが、いったん釈放してはすぐまた捕まえるというやり方でした。
 警察から出てきた父さんは、兄貴を末の妹の後にして戸籍に名を入れましたが遅すぎた。炭鉱労働に従事するようにとの兄貴あての命令書が届きました。
 兄貴は普通小学校には行かず、村で一つしかなかった漢学の塾に通っていました。たいへん優秀で二十歳の頃には先生をやっていました。塾には四十名ぐらいの生徒がいて、その父母から授業料代わりに麦やお米がわずかばかりもらえました。一段階を終えるごとにいくばくかの謝礼も受け取ったようです。
 塾では孔子の教えを説いたり、民族思想が強く出る。植民地支配を進める日本にとって塾は邪魔。そこで、塾つぶしとして兄貴が狙われたのでしょう。
 兄貴に徴用命令が出されてからというものは、父さんの嘆きは日毎に増しました。「くやしい、くやしい」と言って、酒浸りになりました。私は見るに、見かねて決心しました。「私が代わりに行こう」。
 命令書は面長(村長)が出します。川村仲太郎という面長に会って頼みました。「私の兄さんは体が弱いし日本語を一言も話せない。私が代わりに行くから兄貴は行かせないでくれ」と。父さんも人を介して「次男を出すから長男だけは勘弁してくれ」と何度も頼みました。
 ようやく願いがかなって了解されました。兄貴の徴用命令書を面事務所に持って行き、返しました。そこで私は「日本に行ってから、絶対に変なことをやらない」といった誓約書を何枚も書かされました。それから面長が書いた行く先の紹介状を渡されました。その時警察は「お前の兄貴は許してやる」と言いました。
 当時日本鋼管は京城(現ソウル)のある京畿道方面から労働者を集めていたのですが、員数が不足したので南の方にも声をかけたのでしょう。私は紹介状と旅行証明書を持って大邸(テグ)から京城へ、九時間かけて行きました。
 黄金町二丁目(現在はソウル市乙市路二街)の京城職業紹介所の庭に集合した朝鮮人は百名。担当者が「朝鮮語を話すな」「大声を出すな」「列を乱すな」「連絡船に乗るときは大きな声で自分の名を名乗れ」などと注意しました。三、四人単位にまとめられ「いつも一緒に行動しろ、一人でもいなくなれば皆の責任だ」と言われました。京城から釜山(プサン)までは汽車に乗せられました。
 兄貴が日本に連行されたのはそれから一か月後のことです。

【「金と命の交換会社」】
 釜山までの汽車には他の乗客はいません。窓からは外が見えないようになっていました。便所に行くにもいちいち届けなくてはならず、駅のホームに出ることも許されませんでした。車中で連行担当の係員から「川崎の日本鋼管に行く」と聞きました。
 釜山から下関までは連絡船。乗船するとき私は、名簿を持っている憲兵から「かねしろけいしゃく」と呼ばれました。下関からは汽車で川崎に向かいました。
 第二報国寮という所に百人が入れられました。畳の部屋もあるし、布団もある。赤い花柄の派手な布団だったので「立派な布団ですね」と聞いたことを覚えています。近くの色街から調達した寝具だったらしい。心配していたよりいいじゃないか、それが最初の印象でした。十六歳の時でした。
 私が配属されたのは第二製鋼課で、クレーンの運転です。転炉は、すごい風圧で下からカーボンを通して空気を吹き出す。その摩擦で鉄の熱を上げる。そこへホイストクレーンで二・五トンの生石灰を真上から下ろす。下手をするとクレーンもろとも熱風を受ける。日本人はあまりやらない仕事でした。
 十五トンのクレーンの運転もしました。下には鉄の湯が煮えたぎっていて汗が出るので、塩を食べて上がります。炉が空気を吹き出すと、埃も舞う。マスクなどはありません。一昼夜働くと、鼻も耳も顔じゅう真っ黒になりました。
 一日十二時間、土曜日は十八時間働きました。一週間毎昼夜の二交替制でした。三か月たって二十五円か二十七円くらいもらったでしょうか。日本に来るときに、月八十円と聞いていたのでえらく違います。愛国貯金とか共済会費とかなんとかで天引きされたようです。
 食事は、麦と若干のお米とうどんくずが一緒になったものをお椀に入れて、具のない味噌汁をぶちこんで食べました。たまにたくわんが出ることもありましたが、それにしても座って食べるまでもないような粗末な食事でした。
 仕事が終わると一旦は寮に戻り、許可がなければ外出はできません。お腹が空くので頼んで食費稼ぎに働きに出かけました。何々組とかのトラックに乗って荷物運びです。白米の弁当が出たし、帰りには電車賃も出る。朝鮮人だからと、二~三円の安い日当でしたが、足しにはなりました。工場の前には朝鮮人部落があった。そこの食堂で白いご飯とホルモン焼きが出る。それがせめてもの栄養の補給源でした。
 ある日工場で、平炉の上のトタンを修理していた人が、酸化して腐ったトタンを踏み抜いて落ち、黄色い炎となって即死したのを目撃しました。月に約二十人が事故死していました。
 日本鋼管の歌に「義理も堅けりゃ人情も厚い、鉄で鍛えた心意気」といった歌詞があります。しかし私たちは替え歌で、「金と命の交換会社」と歌っていました。

【「立ちしょんべん」】
 日本鋼管の寮では四畳半に五人が押し込まれました。川崎はノミの多いところ。畳を上げるとぱたぱたとノミが飛ぶくらいです。夜もなかなか眠れません。
 手紙は検閲されました。手紙を出すときは日本語で書くように言われ、指導員の検印が必要です。家からきた手紙は指導員が開封した上で渡されました。軍隊帰りの指導員には「南京攻略に参加してチャンコロを何人殺した」などと脅すたちの悪いのもいました。
 若くて、他にやることもなかったので喧嘩はよくやったものです。工場現場には、吉田梅蔵という組長の、われわれとちょうど同じくらいの子どもが日本人試験工として働いていた。そいつが「何をー、この朝鮮人」とよく言うものだから、しゃくにさわって「お前と俺のこの小さないさかいは、やがては民族の血の闘争と変わり得ることを知らないのか」と言い返した。われながら、小さい子がよくもそんなことを言ったもんだと思います。
 そのことをおやじに告げ口したらしい。私は組長に呼びだされ、「現場がたいへんなことになるから、そんなこと言うな」と叱られました。知らず知らずのうちに私も民族としてのプライドを発揮するようになったのでしょう。
 たばこは週に十本くらい、酒は月に一合の配給がありました。酒は、毎月八日になると、天皇がアメリカに戦争を宣言した記念すべき日だからといって、くれました。あるとき、酒をもらいに行ってこいと言われ、行ったまではよかったが、帰りに一升全部飲んでわからなくなってしまった。組長から「おまえは相当のばかだ」と笑われました。
 たまの日曜日の午後に休める時間がもてました。以前から、浅草と靖国神社が頭にこびりついていて、一度は行ってみようと思っていました。浅草は講談の本によく出ていたし、靖国はみんなからもよく聞いたので、どんな所か関心があった。
 靖国神社には憲兵派遣所がありましたが、そのことを知らない私は、裏側で立ちしょんべんをやった。「とんでもないことをやったな」といって捕まえられました。不審な者だ、どこの者だと、油をしぼられた。これはまずいと思い、とっさに「私は天皇陛下のために死にます」と、えらいことを言ってしまった。すると「ひもじいだろう」と言って食事が出され、解放されました。
 後で分かったことですが、韓国の方までこの件で身元照会が入っていたとのこと、びっくりしました。
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:14 | 関連1. 第一次訴訟


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