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崔姫順さんの証言

b0156367_1803891.jpg私は1931年2月2日、全州市に生まれました。家族は父母の外は弟が1人いました。しかし父と弟は私が小学校3年生のときに満州に行って,そのまま帰ってきませんでした。父がいなくなってから,私の家は非常に貧しくなりました。母は家政婦をしながら私を育ててくれました。家は貧しかったのですが、学校での勉強は得意で成績がよく、特に数学が得意でした。学校で日本については日本と韓国(当時の朝鮮)は「内鮮一体」であり日本は韓国を守ってくれる国だと教わっていたので、いい国なんだと思っていました。豊かな国だとも聞かされていました。

小学校時代の私の夢は外交官になることでした。しかし経済的な理由から小学校を卒業しても中学に進学することは困難な状況でした。

私は6年生だった1944年 海星尋常小学校に通っていたとき、女子勤労挺身隊に入れと薦められました。学校へ訪れていた日本人と校長の先生が勤労挺身隊に参加することを薦めていました。日本の不二越に行けば,お金も稼げるし,勉強もできる。」「食事は十分食べられる。」「日本に行ったら,何でも習うことができ,立派な人になれる。」という魅力的な話をしました。また、担任の先生は再び一人ひとりの学生を呼んで、不二越に行くように説得しました。先生のおっしゃったことを信じていた私は不二越へ行こうと決心しました。

先生に不二越に行くことを告げたところ、親の承諾をもらってくるように言われたので,私は母親に不二越に行きたいと話しました。しかし母親は、私のことをひどく心配し、一人娘だから日本にやることはできない,と強く反対しました。

母親は、学校にも出かけていって担任の先生に抗議し,私を日本へやるわけにはいかないと言ったそうですが,担任の先生からは決まったことは仕方ないと言われました。また先生の言葉を信じ込んでいた私が日本に行きたいとしつこく母を説得したため、母親もしぶしぶ承諾せざるを得ませんでした。

1945年2月25日ころ、私たち全州からの挺身隊員50名は、全州を出発して、釜山で他の地方からの挺身隊と合流した後、3月1日日本に到着しました。出発前には全州からの挺身隊員50名が旅館に一泊して合宿し,引率のカナヤ先生から日程などの説明を受けました。この合宿がまるで軍隊に行くような雰囲気だったことをおぼえています。この合宿のときに、母が日本に持っていくための香煎(ミスカル)と着物を届け出くれましたが、これが出発前に母と会って話をした最後の機会になりました。

不二越に到着した翌日から、約1か月にわたり軍隊式の訓練が行われました。運動場に毎日出て、軍人のように、「歩調取れ!」と号令をかけられて軍隊式の行進の練習を繰り返すのです。この訓練のときはまだすごく寒くて、手が凍るように冷たくなり、本当につらい思いをしました。

ともかく何をするにも軍隊式で,上の人の命令に従わないとひどく叱られました。訓練中にときどき、遠くにいる隊長が手をあげて「集合!」と号令をかけることがあるのですが、そのときはすぐに走って集合しなければならず、集合に遅れると中隊長から平手で頬をぶたれました。このような厳しい軍隊式の訓練を受けて、勧誘のときに聞いた話と全く違うと思った私は、韓国に帰りたいと思いました。

私は、不二越では軸受2課に所属し、ベアリングの仕上げの仕事をしていました。同じ課に私の知っている隊員が3人ほどいましたが、日本人もたくさん働いていました。日本人の女学生たちが働いており、この人たちがどこから来たのかはよく分かりませんが、週に一度は実家に帰っていて、実家から持ってきた餅などを食べさせてもらっていた記憶があります。

朝6時頃起きて7時に出勤しました。仕事が終わる時間は時期によって違っていたと思いますが、遅くなることが多く、夏でも少し暗くなってから帰っていました。寮に帰って食事をし、体を洗うと、それから就寝時間である10時になるまで、そう時間はかかりませんでした。

私の仕事は、機械でベアリングを磨くのですが、1日に磨くベアリングのノルマが決められていて、食事の時間以外は一生懸命仕事をしないとノルマがこなせませんでした。機械の前で1日ずっと立ちっぱなしの仕事でした。日本人の男性の工場長が仕事場を行ったり来たりして私たちを監視していました。私はまじめだったのでこの工場長から叱られたことはありませんが、物を落としてすぐ拾わないと、大きな声で怒られました。

機械の前には機械に動力を伝えるベルトが高速で回転していました。私の2つ隣の日本人の女学生が、このベルトに巻き込まれて大けがをしたことがありました。ベアリングにナンバーを付ける機械にベアリングを送り込む作業をしていて指が切断された日本人の男性を見たこともあります。

また私は、金属を削る機械に指を挟まれてケガをしたこともあります。私が機械に指を入れて作業をしているときに友達がトイレから帰ってきて私の機械のスイッチを入れてしまったのです。このときは左手の人差し指が削られて骨が見える状態でした。一週間は病院に通いましたが、その間も仕事は休めず、働きながら病院に通いました。

私の仕事は力は必要ありませんが、目が病気になりました。私がミスをすると、それまでベアリングを削ったりしていた人の仕事は無駄になるので、集中して作業しなければならず、目がとても疲れたのです。病名はよくわかりませんが、あまり仕事に熱中したので生じた病気だと言われました。病気のために目がまぶしくて見えにくくなり、上を見上げることができなくなりましたが、下の方は見ることができたので作業を続けました。この目の病気のために休みはもらっていませんし、病院にも行っていません。

私が暮らした寮では一部屋に25人くらいの挺身隊員が寝泊まりしていました。工場からは離れたところにある寮で、挺身隊員10人くらいがまとまって工場と寮の間を行き来しました。工場に行く前と帰ってきた後、それに寝る前に点呼がありました。寝るときには日本人の先生が寮内を巡回していました。

寝る時間や起床時間、工場に行き、また帰る時間など、決められた規則を守らないとひどく怒られました。病院に行くときでも工場の正門で出入りの時間をチェックされました。外出して戻ってくる時間を守らない人がいて、この人たちは罰を受けていました。また、工場の門のところには門番がいて,通る人を監視していました。
私自身、あまり怒られることはありませんでしたが、それでも寮に入って間もない1945年3月ころ、みそ汁にご飯を入れて食べてはいけないと言われていたのにそれを守らなかったために罰を受けました。不二越では食事中も監督が巡回しており、その監督に見つかったのです。この時は食事の間1時間ぐらい食堂の外で立たされていました。こんな生活ですから、友達同士では韓国に早く帰りたいと話し合っていました。

寮での食事は,朝と夜がご飯とみそ汁とたくわんか海苔くらいでした。海草が入ったスープが出ることもありましたが私の口には合いませんでした。各部屋に配られるご飯を一部屋25人程で分けると、茶碗に半分もありませんでした。ご飯は豆ご飯で、夏にはくさくなっていたときもありました。

昼食は三角パンが3つだけ出ましたが、みんな朝のうちに食べてしまっていました。ただ私はまじめだったこともあって昼までとっておいてお昼に食べました。何しろお腹が空くのがつらい生活でした。お腹が空いて苦しいのに耐えきれず寮から逃げ出した人の話を聞いたことがあります。

寮から手紙を出すときは,まず寮の事務所に封を開けて出していました。中身を検閲されるのです。ですから、手紙には韓国に帰りたいという本当の気持ちは書けるはずもなく、元気でやっていますとだけしか書けませんでした。

終戦の日のしばらく前から毎日のように空襲警報が鳴るようになって、寝られなくなりました。靴と非常袋を枕元に置いて寝て、警報が鳴ったら電灯は付けずにすぐに逃げるということが続き、毎日寝不足で眠かったのをおぼえています。

8月1日には、夕食後に警報が鳴り、布団をかぶって川辺に非難していたところ,夜10時くらいから明け方にかけて激しい空襲がありました。このときは川辺から焼夷弾がはじける様子が見えて、その破片が自分のところに飛んでくるような気がして本当に怖い思いをしました。空襲の後、富山市内は一面灰になっていました。

不二越にいる間、賃金は全くもらっていません。行事と言えば、一度だけ、工場で働く私たちの様子を撮影した映画を見せてもらったことがあります。(これは韓国に送って家族に見せるという説明でした。)お花や書道の時間はありませんでしたし、勉強も教えてもらったこともありません。このように韓国で勧誘のときに聞いた話は全くのでたらめでした。

1945年8月15日,みんなで集まってラジオ放送を聞き、終戦を知りました。そのときまで自分は空襲で死ぬだろうと思っていたので、終戦と聞いて、生き延びたというほっとした気持ちがしました。

解放後は仕事がなく、食事はもらっていましたが、毎日お腹が空いていて、着物と豆を交換しながら何とか暮らしていました。帰国前には持っていた着物は全て交換してしまいました。解放後もなかなか韓国に返してくれませんでしたが、道庁の関係者が迎えに来てようやく帰れることになりました。韓国に帰ってから聞いた話ですが、解放後なかなか私が日本から帰ってこないので、母はひどく心配し、小学校の担任(韓国人で、後に大学の先生になりました。)の家に押しかけて行き、「娘が帰ってこなければ私(母のこと)の死骸を片付けるか,私の娘をあなたが連れてきなさい。」と言ったことがあるそうです。母は私を待ちわびて、解放の日から毎日毎日、全州駅に出てきて、その駅の終列車を見るまで家に帰らなかったそうです。そのときの母の気持ちを思うと、私の苦労よりも母に心配をかけたことが申し訳ないという気持ちで、胸が一杯になります。

1945年10月に,ようやく私は帰国することができました。私は帰国後、1948年に結婚し、2人の子供をもうけました。主人も日本にいた経験がある人なので、私の挺身隊での経験を話すことができました。でも、帰国後しばらくして、慰安婦挺身隊があったと人から聞いたとき、私が参加したのが慰安婦挺身隊でなくて不幸中の幸いと思いましたが、世の中にこんなことがあるのかと、くやしくて歯をかみました。

私は、本当に幼いころに日本に渡り、上の人から命じられるままに正直に一生懸命働きました。勧誘の言葉を信じて挺身隊に参加してしまったことを思い出すと、今でも後悔の気持ちがおこります。日本政府と不二越に言いたいことは、私のような幼い子供たちを連れて行ったのに、良心がないということです。

自分たちの過ちを省み、過ちを謝罪し、補償しなければ、この問題は解決できないといくことを伝えたいです。ですから私は原告として訴訟に参加することになりました。日本政府と不二越が本気で過ちを認める姿を見せることを願っております。
by fujikoshisosho | 2014-04-01 18:03 | 原告の証言

原告・安(アン)さんの訴え

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私が小学校3年生になって突然、小学校は国民学校となり、先生も職員もすべて日本人になりました。学校では朝鮮語が使用禁止で日本語を強制されました。私たちは日本語に慣れていないので、友だちとふざけてつい朝鮮語を話したりすると、厳しく叱られ、罰として教室で両手をあげて正座させられました。生徒の中にスパイのような人がいて、誰々が朝鮮語で話をしたなど告げ口され、罰を受けさせられたりしました。

名前も安本榮子と変えさせられました。ある日父が私の名札を見て驚いて、なぜ日本名を名乗るのかと叱られました。私は「学校の先生の言いつけで、言うことを聞かないと罰がある」と言いました。父は怒りのあまりに「名前まで奪うなんて」と胸をたたき嘆きました。このころ、韓国は全てが日本人の支配下にあり、日本人に逆らうことなどできませんでした。

日本人教師による勧誘
私は馬山の小学校を卒業する直前に、担任の先生から不二越への勧誘を受けました。友だちと運動場で遊んでいるとき、軍服を着た男性2人が学校に来ました。その時はわかりませんでしたが、不二越の社員でした。

担任の先生が授業中に、子どもたち全員を講堂に集めて映画を見せました。そこには女学生が生け花やミシンをしたり、工場で機械の前で仕事をしているのが映っていました。とてもすばらしいところだと思いました。そして、先生に「お前たちはここにいても上級学校に行けないけれど、日本に行けば生け花も勉強もできる。お金も儲けられる。ぜひ日本に行くようにしなさい」と言われました。

両親の反対を押し切って
そのとき私たちは数えで13歳でした(実際は12歳)。あまりにも幼く何も知らなくて、先生のおっしゃるように日本に行って勉強や生け花がしたい、「日本へ行こうよ」と友だちと話していました。家に帰って母に話しました。父はとても厳しい人でしたので、父親には話せず、母親にだけ話しました。母はびっくりして、「お前たち小さい子どもが外国に行って何をするつもりか。馬鹿なことを言うな」と叱られました。そのとき同級生に従姉妹がいたので、相談して「ハンガーストライキをしよう」と始めました。1週間ほど家でご飯を食べなければそのうち許してくれるだろうと考えたのです。

何日も続けたものですから、母は「これじゃぁ、うちの子はどうかなっちゃう」ととても心配しました。それで、お母さんは、従姉妹の家に行き、おばに相談しました。「死ぬよりは日本へ送ったほうがまし。父には黙ってこっそりと送り出そう」ということになりました。私が日本に行った後、その事を知った父は、そんなことを言う人ではないのに、あまりにも怒って母親に出て行けと言ったそうです。

馬山の市役所に集合しました。全部で50人でした。家からは母と姉、おばが一緒に見送りにきました。集まった中では私たちが一番幼かったです。釜山から下関まで船に乗り、下関から汽車で富山に着きました。

不二越へ
富山に到着したら、第十二愛国寮という宿舎でした。その寮には舎監の先生オオヤマケイコという人と、もう一人は名前を忘れましたが、その2人が案内してくれました。2階の部屋に行き、各自持っていた所持品を配置して、何人かずつ分かれて指定された部屋に入りました。夕食の時間になり、持ってきたものはおひつに入ったご飯、おつゆと沢庵。ご飯はお茶碗にほんの少しだけ。お昼も朝ごはんも同じです。その後は軍隊式の行進の練習が一ヶ月ぐらいありました。
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馬山から行った50人は、25人ずつ2班に分けて赤番・青番という名前がついていました。赤番・青番で午前と午後に分かれるんですが、午後の班は夜間も仕事をするのです。私は赤番の分隊長に任命されました。分隊長として25名を引率して、寮と工場を往復したわけです。朝の起床から軍隊式に廊下に一列に並んで、先生に向かって「イチ!ニ!サン!・・」と番号を言い、「以上行って参ります!」と挨拶をして工場に行きました。

工場での強制労働
私の仕事は旋盤で「穴うけ」という作業を担当しました。私は背が低いので木の箱を足元に置いて仕事をしていました。仕事場には男性の班長がいて、機械のスイッチを1台1台押していきます。その後はとても重たい鉄の棒を旋盤に取り付けしなくてはなりません。機械を動かす前にすることがあります。水道のパイプみたいな管が機械についていて、それは油を流す管です。鉄を削っていくときに、摩擦熱で高温になって火がでるのです。熱が上がらないように、そのための油なんですけど、口で吸い出さないと油が出ないんです。初めてなので油をずいぶんたくさん飲んでしまいました。
穴受け作業は飛行機の付属品で、鉄の棒を削って穴をあけます。仕事の量は、ノルマがあって班長から1日300個作れという指示でした。私たちは幼くて力もないんですけれど、あの重たい鉄の棒を取り付けして300個なんとかやり遂げました。それをやり遂げた後、班長はもっとがんばりなさいと言われました。私たち韓国人というのは気が強いというか、負けるもんかという気持ちになるのですよね。このやろう、と思って1日に400個作りました。

機械は大きな動力ベルトが回っていて、機械に髪が絡まってけがをしたり、指を切断したりする人もいました。腸チフスになった人もいます。あまりにも仕事が辛くて逃げた人もいます。未だに消息のわからない人もいます。

空腹を抱えての生活
朝食のときに昼用の三角パンをもらうのですが、お腹がすいているのでそのとき食べてしまいます。とてもお腹がすいたものですから、なんせこんなにお腹がすいたらどうしようもないとみんなで話し合いをしました。外に出ることも許されず、「かごの鳥」みたいにじっとそこにいることしか許されなかったんです。年上の姉さんたちに、同胞が住んでいるところに服とか新しいタオルとかを持っていけば、大豆をふかしたものと交換してもらえると聞きました。私たちは出ませんでしたが、外に出る人に服を預けました。寮の周りには鉄条網がはられているので、2人で鉄条網を両側から持ち上げると、隙間ができて、なんとか一人が這って出ていけるんです。外に出た子が大豆をふかしたものとかを持ってきたら、服を出した子たちはそれをもらって、自分の部屋の子どもたちと分けて食べました。家から持ってきた洋服は全部なくなってしまいました。

富山の冬は寒く、暖房もありませんでした。寒くて眠れません。与えられた布団は敷き布団1枚と国防色の毛布1枚だけです。私は友だちとふたりで一組になり、下に敷布団2枚と毛布2枚にして、抱き合って寝ました。それでも寒くて眠気がきません。寝ながらふたり一緒に泣いていました。あのときのことを今考えてみても胸が痛いです。こうやって重労働させられ、勉強もできず、お腹もすいて寒いし、親たちはどんなに心配しているか、何でこんな目に遭わなくてはならないのか、そればかり考えていました。

父の死
家からの手紙は、舎監の先生が中を検閲して、特に怪しい文書でなければ渡してくれますが、何かひっかかるところがあれば、手紙が来たということも言わないまま処分していました。ある日、仕事を終えて寮に帰ってきたところ、舎監の先生に呼ばれました。何かといいますと、私の父が私にとても会いたがっていて、父はとても筆が達者だったものですから、舎監の先生宛に筆で手紙を書いて送ってきたのです。こういう手紙がきたと見せてくれて、「お父さんの字は達者だねえ。こういう手紙が来たから家のことは心配しなくていい」と言われました。しかし、その後さっぱり手紙は届きませんでした。ある日、夜寮で寝ているところを、先生に肩をたたかれ起こされました。事務室に行くとお弁当があって、食べるように言われました。お腹がすいていたのでそれを平らげました。先生は何か言いたげで、私は何か失敗をしたのではないかと心配になりました。すると、父が亡くなったと言われました。私はとても悲しく、私を心配するあまり、精神的に苦しんで父が亡くなった、私が殺したんだと、とても後悔しました。先生からは、「もう亡くなったのだから帰っても仕方がない」と言われ、葬儀に出ることもできなかったのです。それが何より辛かったです。

帰国
私が働いていたのは1年3ヶ月ですけれど、不二越はもう日本が負けるということがわかっていたころだと思います。1945年7月のある日、舎監の先生が「荷物を全部まとめなさい」と言いました。私は分隊長ですから、「先生、荷物をまとめると言って、どこへ行くのですか」と聞きました。先生は、「今度会社が引っ越すことになったので清津に行くことになった」とおっしゃいました。荷物を全部集めて出発しました。私たちは船に乗りましたが、牛や馬などの動物が乗っていました。船からは真っ青な空しか見えません。船が揺れるので、みんな吐いたりして、気持ち悪かったです。到着してから2泊しました。「1ヶ月休暇を出すから家に帰りなさい」ということでした。「小遣いもなしにどうやって家に帰るのですか。給料を出してください」と言うと「帰ってきたらそのときに通帳を渡すから」と言いました。「汽車賃もなしにどうやって帰るのか」と言ったらお金はくれず、白い小さな紙切れに判子をおして、「これを持って行ったら汽車に乗れるから」ということで、それで家に帰ることができました。それから何日かして終戦を迎えました。

「勝つまで闘う」
不二越は荷物も返してくれず、賃金も支払わず今まで来ています。私たちは裁判を起こして、何度も富山に来て、不二越に賃金を返せと言ってきました。しかし、不二越は何もしません。
私たちはもう八十歳を超える状態であるわけですから、腹立たしい思いです。そして、命のある限り闘って、必ず不二越に未払い賃金を払わせます。子どもたちを騙したんですから、きちんと謝らなくてはなりません。私たちは子ども時代に皇民化教育を受け、日本と天皇のために生きることが正しいことだと信じ込まされました。親の反対を押し切ってまで遠い日本に来て、飢えと寒さで故郷と家族を思って泣きました。何も知らない子どもで騙されたことが悔しいのです。
どんなことをしてでも勝つまで闘います。
今回は私一人で来日しましたが、この秋には原告団が全力で来日し、不二越東京本社と富山本社に命がけの闘いを行います。決戦にむけてともにたたかいますので、どうか支援をお願いします。
by fujikoshisosho | 2010-10-05 19:59 | 原告の証言

原告Pさんの証言

私はPと申します。

 1 不二越に行く経緯

私が、女子勤労挺身隊への勧誘を受けたのは、国民学校の5年生で13歳のときです。
担任だった30歳前後の女性教師が、普通の授業時間の中で、「日本に行ったらもっと勉強もできるし、生け花、踊りも教えてもらえる。」、「工場の設備や待遇も良いし、学校に行くこともできる。」、「どうせみんな行くことになるのだから、1番先に行くのが一番有利」、「愛国することだ。」などと、女学生が工場で働いている活動写真を見せて勧誘しました。
 両親は、日本に何しに行くのか心配し反対しましたが、私は先生の言うことだから間違いないと信じ、父の判子を無断で持ち出し、手続をしました。
 こうして私は、富山の不二越まで連れて来られたのです。

2 不二越での仕事

   不二越では素材課で飛行機の部品を作る仕事に従事しました。
私は体が弱く旋盤を操作することができず、箸のような細い直径2、3ミリの金属棒を5ないし10センチの長さに切るターレットという名前の機械を担当させられました。一本切るにも両手で力を込めないと切断することができず、それを1日に6000から8000本切らなければなりませんでした。それが終わらないと残業をさせられ、1日終わるとくたくたになりました。
  私たちは、朝早くから夜まで働かされました。夜勤作業をすることもありました。夜間作業中に居眠りをしていて、上司に小突かれて怒鳴られたこともありました。
  私は、金属棒の熱い切り屑が指に刺さり、そこが化膿して2回手術をしなければなりませんでした。私の同僚で同じ怪我をした者は大勢いました。
  このような仕事を1年ほどしていたのに,給料は1円ももらえませんでした。


 3 不二越での生活について

   休みは月に1~2回程度はあったと思いますが、休みの日でも外出禁止で、外出できたのは、怪我をして病院での手術が必要になったときだけでした。
 食事は、朝も昼も夕食も、たくわんとみそ汁1杯弱とお椀に半分弱の大豆入りご飯ばかりでした。
 夜勤のときも夜食としてひし形の三角パン2枚だけしか出ず、おなかはすいていたのですが、あまり食べられないようなまずいパンでした。おかずなどが出たことはありませんでした。
 食事の絶対量が不足し、私はいつも腹を空かせていました。

 4 不眠症になったこと

   私が不二越で働いていたとき、空襲がひどくなり、昼は防空訓練をして、毎晩、空襲で防空壕に逃げ込むようになりました。また、私は、重労働、家から離れた寂しさ、空襲の恐怖のために少しの物音でもびっくりして起きるようになりました。やがて毎日のように空襲警報がなるようになりました。そのようなことから不二越での最後の2ヶ月くらいは、不眠症になってしまい、寮の中の衛生室で寝る生活となりました。当時衛生室で過ごす人が私を含めて3人いました。やっとの思いで仕事に戻っても、体がついていかず、また衛生室に戻るという生活を続けていました。そのときは眠れなくて、食べれなかったので、骨と皮だけという痩せた体になってしまいました。
 それで、不二越の寮の人から、これでは働けないから家に帰そうという話がでました。そのような矢先、工場が朝鮮の沙里院に疎開することになり,私もそちらに行きました。ところが機械が到着せず,晋州の自宅で待機を命じられていたところ,8月15日の解放を迎えることができたのです。

5 帰国後のこと

 帰国後も、不眠症は治らず、医者に見てもらったら、神経衰弱で入院が必要だと言われましたが、お金がなかったので、薬をもらうだけでした。また、栄養不足のため、脚気になっていました。それから栄養のあるものなどを食べ、食生活に気を配るようになって、徐々に体調はよくなって行きましたが、不眠症の薬を手放すことはできませんでした。
 私は、19歳のときに、結婚しましたが、日本に行っていたことや不眠症になっていることはとても言えず、秘密にしていました。ですから、不眠症の薬も夫に隠れて飲むしかありませんでした。その後、寝ているときにうわごとを口走るようになり、それを夫から指摘されました。私は神経衰弱が再発したと思い、自分から家を出て、結婚生活は半年ほどで破綻してしまいました。
 父は、心配の余り何も食べることが出来なくなり、間もなく亡くなりました。母も心配したためかその2-3年後、40代の若さで亡くなりました。その後、24歳のときに再婚し、3人の子どもも生まれましたが、その夫や子どもたちにも挺身隊に行ったということは言えませんでした。
 実際、挺身隊に行ったということがわかった人の中には、離婚されたり、夫婦仲が悪くなったりした人がたくさんいます。
 私は、現在でも、調子が悪く、不眠症に悩まされています。不二越での重労働と栄養不足や空襲警報など、過酷な生活が原因であることは間違いありません。
 今年初め、イラク攻撃をテレビで見て、空襲を思い出し、恐怖で胸が苦しくなり、寝込んでしまいました。とても苦しかったです。
 年端も行かない子供を騙して日本に連れて行って、賃金も支払わず重労働をさせた不二越とそれに加担した国は、補償し、謝罪をしてほしいと思います。(03.11.7 1審第2回口頭弁論)
by fujikoshisosho | 2008-07-07 17:47 | 原告の証言

第2回口頭弁論。原告、YCIさんとPSBさんが意見陳述。

陳 述 書

原告番号20 YCI

1 私はYCIと申します。私が挺身隊に勧誘されたのは1944年6月ころで、当時私は16歳でした。

2 挺身隊のことは、顔見知りの朝鮮人の区長から話がありました。区長は私に何枚もの写真を見せて日本に行くように勧めました。写真には日本の女学生が働いているところや生け花をしているところなどが写っており、大変きれいに見えました。区長は、「日本に行けば、こういうところで仕事もいいし、金もうけもできる」「生け花、ミシンも教えてくれる」等と甘いことを言って私を挺身隊に勧誘しました。それで、私はお金がもうかるし技術も身に着くし習い事もできるしということで、日本のどこでどんな仕事をするのかもわからないままに区長の勧誘に応じました。

4 富山に着いたときはこれからいろいろなことができると嬉しかったのですが、不二越での生活は厳しく、私たちはだまされたのだと気付きました。
 私たちは、鉄の棒に旋盤で穴をあけて飛行機の部品を作る作業をやらされました。本来は20歳過ぎの男の工員が行うきつい仕事でした。鉄の棒は肘から手首ぐらいの長さで、太さは腕ぐらいの重いものでした。旋盤の仕事は危なく、指や手に生傷が絶えず、私は右手の親指を機械で切り、2、3針縫いました。現在も右手親指の爪は変色し曲がっています。
 工場は、昼夜の1週間交代勤務制で、機械を休ませずに操業し続けていました。食事時間は20分程度で休憩時間はありませんでした。私たちの作業は1日中立ちっ放しで行うものでしたので、足がむくんで痛くて大変でした。私は、右足が炎症を起こし約20日間も入院し、足首に穴を2箇所開けてホースで膿を取り出す手術を受けました。

5 このように仕事は重労働でしたが、食事は貧弱でした。とにかく量が少なかったです。少しの御飯と、朝はみそ汁、昼は沢庵、夜はおかず一品で魚や肉類は一度もでたことはなく、いつも腹を空かせていました。私は、年齢の割に体が大きかったので、いつも、非常にひもじい思いをしていました。このような生活の中で、日本に来てから生理も止まってしまいました。

6 家に手紙を出す時には、何を書いたか舎監に見せてから封をさせられました。家から来た手紙も検閲されました。

7 給料については、担当の舎監は、帰る時にまとめて払うと説明していましたが、結局払ってもらっていません。お金がもうかると聞いていたのに、ただ働きになってしまいました。

8  また、生け花も2回見学しただけで教えてもらっておらず、ミシンも教えてもらっていません。これもでたらめでした。

9 私はだまされて連れて来られた不二越で一生懸命働きました。まだ幼い子供が空きっ腹で、奴隷のように働き、栄養不足でボロボロになり、乞食のようでした。
 私は当時、挺身隊の歌の替え歌を先輩に教わり、つらいときに同僚と歌って気を紛らわせようとしました。今でも歌えます。その歌詞は「富山来るときうれしかった 一夜過ごせば悲しさよ いつかこの工場去るでしょうか いつか不二越去るでしょうか ああ ああ 陰でなく涙は」というものです。

10 私は、いわゆる関釜裁判の原告として戦いましたが不当にも請求は認められませんでした。第1次不二越訴訟の最高裁和解では,米国で不二越を被告とする訴訟を準備していた4名の被害者は和解の当事者となりましたが,国相手の訴訟に取り組んでいた私たちについては,同じ被害者でも,不二越は私たちが和解の当事者として参加することを認めようとしませんでした。私は、このような不二越をどうしても許せないので、今回の裁判に参加しました。
謝罪がなされるべきです。もちろん、私たちが働いた賃金は支払われるべきだと思います。私は、人生の貴重な青春の時代を失ったのですから、これに対する補償がなされるべきです。
by fujikoshisosho | 2008-07-07 17:46 | 原告の証言

原告Kさんの証言

私は…1929年6月22日に生まれ,現在74歳です。
 私が挺身隊に勧誘されたのは1945年3月で,当時私は15歳でした。私は9歳のときに麗水西国民学校に入学したので,当時は国民学校6年生でした。
 私の家族は麗水市に住んでいて,父が病気のため母が働いて収入を得ていました。兄弟は私の上に3人いましたが,いずれも当時は既に結婚して家を出ていました。唯一家に残った子供だった私は,学校から帰った後は,母を助けて家事をしていました。
 挺身隊のことについては,最初は学校の担任の先生からクラスの子供たち全員に対して話がありました。挺身隊に行けばお金を稼ぐこともでき,仕事が終わった夜間には学校にも行けるという話だったので,私は挺身隊はいい所なんだと思っていました。
 1945年3月のある日,郡庁の役人のオオヤマという人から母に連絡があり,私と母が郡庁に呼ばれました。郡庁には私たちと同じように呼びつけられた親子が何人も来ていました。オオヤマさんは「挺身隊に行けば勉強ができる」「安全な所だから心配ない」「お金も稼げる」と言って,私を挺身隊に勧誘しました。仕事の内容は飛行機の塗装や清掃などの簡単な作業だということでした。当時私たちは,学校で日本は豊かな国だと教わっており,私は,日本で働いてお金を稼ぎ,少しでも家計を助けたいと思って挺身隊に行くことを決めたのです。
 しかし,挺身隊として富山に来て,間もなく自分が騙されていたことに気がつきました。「勉強ができる」という約束とはまったく異なり,私たちは不二越に到着するなり厳しい軍隊式の訓練を強制されたのです。このときから,私は,いつも早く韓国の家族のもとに帰ることばかり考えていましたが,結局終戦まで帰ることはできませんでした。
 私は何度も寄宿寮にいた日本人の先生に韓国に返してほしいとお願いしたのですが,船便がないからだめだという返事でした。私の両親は,字の読み書きができないので,私から手紙を書くこともできなければ,両親から手紙が来ることもありませんでした。ですから,ただただ両親に会いたくて本当に寂しい思いでした。
 不二越の仕事は,子供だった私にとっては大変きついものでした。来る日も来る日も旋盤で鉄材を削る作業を繰り返しました。材料の鉄を旋盤に取り付けるため運ぶ作業ですら,子供だった私にはきつい作業でした。旋盤は大人用に作られていたので,背の低い私たち挺身隊員の多くが,足下に30センチほどの高さの木箱を置いて作業しました。旋盤を操作するハンドルは私には動かすのに非常に力がいり,また,時々旋盤から鉄屑が飛んできて目に入ったり,熱く焼けた鉄屑のために焼けるような思いをすることがありました。
 1日に完了すべき仕事のノルマが決められていて,それを達成しないとひどくしかられました。仕事の監督にはタムラ伍長と呼ばれる日本人の年配の男性が当たっており,仕事が遅れると厳しく私たちをしかりつけるのです。私たちが仕事を間違えたり,仕事のできが悪いときには,木の棒で肩や背中を叩くこともありました。私自身も何度か叩かれました。タムラ伍長は背も高く太っていて,子供の私たちにとっては本等に恐ろしい人でした。仕事は朝の7時から12時間にわたって続き,いつもへとへとで,夜はぐったりと疲れて寝込むのですが,疲れがとれず日中も居眠りしそうでした。
 こんな重労働させられたのに,私たちが与えられたご飯の量はとても少ないものでした。朝食が足りないので,昼食用として渡される三角パンを朝のうちに食べてしまい,昼には食べるものがなく,午後はおなかが空いてたまらない状態で,さらに仕事を続けなくてはなりませんでした。
 宿舎もひどいものでした。畳はとても不衛生で,夏はノミ,冬はシラミがいっぱい発生し,その上ではとても眠ることができなかったので,私たちはみんな自分の布団を片付けるための押入の板の間に布団を敷いて寝ていました。お風呂にも1週間に1度も入れないことも度々あり,あまり汚いので自分で洗面所で体を拭いたりもしました。
 寮の玄関付近には管理室があり,そこにはいつも日本人の先生たちがいて私たちの外出を監視していました。朝は工場に行く前,夜は工場から帰ってきた後には必ず点呼があり,外出することは許されませんでした。言うことを聞かないと,韓国に帰さないと言われていたので,私たちは先生をとても恐れていました。外出することもできず,毎日毎日,仕事をしたらあとは疲れ果てて寝るだけの生活でした。
 1945年8月15日の解放の日の数か月前から,毎日のように空襲警報や警戒警報が鳴るようになり,警報が鳴ると,私たちは布団をかぶって逃げました。夜,空襲警報が鳴ると怖くてその後も眠れず,翌日の仕事も眠たくて仕方がありませんでしたが,居眠りするとタムラ伍長から激しく叱られるので,眠たいのを必死に我慢して働きました。
 挺身隊に勧誘された時は,お金が稼げるという話だったのに,こんなに苦しい思いをさせられながら,私たちは一円の給料ももらえませんでした。寮にいた日本人の先生たちに,賃金はもらえるのか尋ねると,答えはいつも「分かった。分かった。韓国に帰るときにお金は必ず渡す。」という返事でしたが,それも嘘でした。帰国するときにも賃金をください,日本円でもらっても仕方ないから韓国のお金でくださいという話をしましたが,日本人達は全く聞く耳を持たなかったのです。私たちは日本を信じて働きに来たのです。そんな幼い私たちを騙して日本でこき使った日本人には,私たちを騙したひどい人たちだという恨みを持ちました。今もそのことを思うと腹が立って仕方ありません。
 私は,1945年10月に韓国に帰国することができました。
 韓国に帰ってからは,韓国の人は皆,挺身隊と聞けば慰安婦のことだと思い込むので,両親以外には誰にも挺身隊のことを話すことができませんでした。一緒に挺身隊に参加した友達と会ったときですら,お互いに挺身隊の話はしないようにしていました。私は20歳のころに結婚しましたが,夫や子供にも,ずっと長い間挺身隊のことを話すことができませんでした。今から10年ほど前に,初めて挺身隊に参加していたと話すことができました。
 私が不二越で挺身隊員として働いてから60年近くの時が経ちました。しかし,今でも時々,不二越でつらい仕事をさせられ,ひもじい思いをしたことを思い出します。その度に,挺身隊への勧誘の言葉を信用した自分のことが,悔しくてなりません。あんな馬鹿なことをしなければ,つらい思いをしなくてすんだし,慰安婦と間違われることを恐れて自分の経験を隠すようなことをしなくてすんだのです。
 子供だった私たちを騙し,つらい労働させた上に,賃金も払わず放り出した不二越や日本の国には,強い憤りを感じます。私たちも年をとり,何時まで生きていられるかも分かりません。どうか,1日も早く責任を認め,適切な補償をしてください。(03.7.9 1審第1回口頭弁論時の陳述書より)
by fujikoshisosho | 2008-07-07 17:35 | 原告の証言

原告Sさんの証言

私はSと申します

 この裁判で、被告らは時効を理由に責任を否定しているそうですが、私は、なぜ今日まで裁判に訴える事ができなかったのかについて意見を述べたいと思います。裁判官には心の耳を傾けて聞いていただきたいと思います。

 私は1930年5月15日に生まれ、現在74歳です。1945年1月ごろ、14歳のときに、日本人教師に勧誘されて、不二越へ来る事になりました。不二越では、貧しい食事しか与えられず、大人がするきつい旋盤の仕事をさせられました。日本人の班長が殴ったり、けったりしてノルマを達成するように強要されました。

 そのために、2ヶ月ほどで疫病にかかり、仕事中に工場で倒れて、1ヶ月ほど入院しました。高熱が何日間も続き、髪の毛が全部抜けてしまい、このまま家族に会えないで、死んでしまうのではないかと、毎日毎日泣いていました。

 日本が戦争に負けて、10月になってようやく博多港を経由して韓国に帰ることができました。「進駐軍が写したフクオカ戦後写真集」の中の「帰国を喜ぶ少女達」の中に、不二越から帰るみんなと一緒に私も写っています。

 私も、私以外の挺身隊参加者も、不二越に行っていたことについて、他人には話をしませんでした。「幼い時に日本に行った」と言うと、韓国では、誰もがみんな「慰安婦」と考えるからです。それで、決してだれにも話しませんでした。ましてや衆目の中で、裁判に訴えるなど到底できないことでした。

しかし不二越で生活したことは、いつも私の頭の中に残っています。私は心臓がよくありません。不二越で受けた空襲のことをたびたび思い出しますが、そんな時は、心臓がドキドキして眠れなくなります。大きな音がすると、動悸がするため、子どもたちには大きな音を出さないようにと言ってきました。

私たちは不二越に強制連行され、強制労働させられながら、給料も支払われず、何の補償も受けず、慰めの言葉一つ聞けず、空襲で受けた恐怖と精神的な傷によって、今でも健康が侵された状態で、苦しみが続いています。

 私が死ぬまでにこの被害を解決し、名誉を回復したいのです。私が死ぬその日までに、この問題を解決できなければ、私のハン(恨)は解けないでしょう。

私は不二越から帰った後、2年ほどして結婚しました。私は女子勤労挺身隊として不二越に行っていた事を恥ずかしい事だとは思っていなかったので、結婚当初から日本に行っていたことを夫に話しました。その後、夫はラジオを聞いて、「おまえも慰安婦だったのだろう。汚い慰安婦とは暮らせない」と言い、私に暴力を振るうようになりました。そして長い別居の後、私が44歳の時に4人の子を残して夫は亡くなってしまいました。

 その後は、あらゆる苦労をしながら、4人の子どもに教育を受けさせ、結婚までさせましたが、子どもたちも私の事を「慰安婦だったのではないか」と誤解し、恥ずかしく思い、往来をしませんでした。私は孤独な生活を強いられ、心臓病に苦しんでいるうちに健康が非常に悪化し、10年前からどんな仕事もできなくなりました。

 私は、幼い歳で何も知らないまま、日本の為に言われるとおりにやっただけですが、そのきつい苦労の対価として、今までの人生で夫と子どもたちに無視され、「慰安婦だった」というくびきを掛けられ、一生を涙で生きなければなりませんでした。私は、子どもたちにだけでも、このくびきを解き放たれた姿を残して逝きたい心情です。

 私の無念さとハン(恨)が解けなければ、死んでも霊魂が泣きながらさまようことでしょう。どうか、このハン(恨)多き老女の状況をお察しいただいて、残りわずかな余生ですが、平安に暮らすことができるようにしていただけることを、切にお願い申し上げます。

 最後に、今年の3月には、韓国の国会で、「日帝強占下強制動員被害真相糾明法」が成立しました。日本による植民地支配と侵略の実態を明らかにする事は韓国国民の総意であり、私の気持ちでもあります.

 このように韓国において、ようやく日帝の戦争責任を追及できるようになったにもかかわらず、日本の裁判所では時効によって、私達の権利が消滅したという判決が続いていますが、到底納得できません。

 また、不二越が強制連行・強制労働について謝罪もしないで、韓国企業三星電子と取り引きしていましたが、不二越が戦犯企業であることを知った後、6月11日、三星電子のキム常務が不二越富山本社を訪問して、明石副社長らと会談しました。

 その会談の中で、不二越が「懸案問題について、最善を尽くして円満な解決に努力する」と答えたと、三星電子から聞きました。

 その知らせを受けて、7月13日、原告団の代表が不二越富山本社を訪問して、誠実な回答を求めましたが、不二越は「原告とは話しをしない」という態度に終始し、「円満な解決に努力する」という姿勢に程遠いものでした。

 この場で改めて、不二越は三星電子への回答を踏まえて、強制連行被害者に誠実な対応をされますよう訴えます。

 最後に、日本国と不二越がわたしたち強制連行被害者に誠実に謝罪と補償をする事をお願いして、陳述を終えます。 ( 04.7.28 1審第4回口頭弁論)
by fujikoshisosho | 2008-07-07 17:34 | 原告の証言


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


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