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「我が人生 我が道」金景錫(下)

【「帰国」】
 日本を去って以来、吉田いくさんに再び会ったは、日本鋼管訴訟の証拠探しで一九九二年に来日した時でした。NHKの若い女性プロデューサーが、彼女の行方を探し出してくれた。私は「助けてもらったお礼をせねば」と入院先に花を持って訪ねました。
 吉田さんは脳梗塞で記憶を失っておられ、娘さんと話ができました。聞くところによれば、吉田さんは日本鋼管病院の看護婦長になり、中国人と結婚し満期退職されたそうです。国際的な幅の広い人だったんですね。
 娘さんは私に向かってこう話されました。「お母さんは『その昔、朝鮮人の方と深い恋仲になったことがある』と言っていました」。「ああ、あれが恋だったのか」と思いました。
 私はあの世に行って閻魔(えんま)大王に「おまえ、何を悪いことをしたのか」と詰め寄られたら、吉田さんの純真な気持ちを踏みにじったことだと答えるでしょう。彼女の真実の胸の内を聞かずに東京駅で別れたことを、今になっても後悔しています。
 帰国したのは一九四四年の秋口でした。下関から釜山に渡り、釜山からは汽車で大邸(テグ)に向かいました。沿線の家が低く地べたに張りつくように見えたのが印象的でした。日本で見ていた石垣のあるきれいな家とわらぶき屋根の土塀の家とはえらく違います。
 日本人に比べて、国民生活は何故こんなに貧しいのか。正常な体で行って、帰りは腕がぶらぶら。いつまでも殴られっぱなしでいいのか、この仕返しはいつかせねばと、一種の復讐心が燃えてきました。
 駅の改札口には憲兵と警察がいて尋問を受けました。そこから木炭自動車に乗って約三時間。連絡しないで帰ったので、父母はいませんでした。
 会ったときは突然のことで驚かれた。お母さんは「どうして帰ってきたのか、事件でも起こしたのか」と心配した。「会社でけがをした。やるべきことはちゃんとやってきたから」と言って安心させました。ところが、日本の特別高等警察にあたる高等係の朝鮮人刑事が私に目をつけ、夜中に家にやってきては塀を乗り越えて聞き耳を立てる。両親は「何かやったな」と感づいたようですが、それ以上追及しませんでした。
 村の人々は「やられたな、苦労したな」と見てくれたが、警察の監視がつき、「内地帰りの札付き」というレッテルがはられ、いづらい雰囲気ではありました。

【「解放」】
 私は、家に帰って初めて兄貴が強制連行されたことを知りました。私が日本に行ってわずか一か月後、北海道・夕張の炭坑に連行されたのです。
 家の代を兄貴に継がせるため私が身代わりになって行ったのに、これでは意味がない。兄貴を連れて行かないと約束していたのに、卑怯千万だ。面長の川村仲太郎を憎みました。
 旧正月になると、韓国でもおもちを作って食べます。当時は電気も練炭もなかったので、薪をくべてもちを焼きました。しかし総督府は、正月は日本人式に太陽暦でやれ、旧正月は認められないと。刑事は、薪を抜き取ってそれをもちの中に突っ込み、食べられないようにしました。
 刑事にいったん目を付けられると、留置場にぶち込まれるか、労働現場に行かされるか、どちらかです。「内地帰りの不逞鮮人」のレッテルがはられ、刑事につきまとわれる中、労働現場行きを断れない状況でした。
 刑事も村役場も「おまえ、うちで遊んでいてもしようがないから釜山の勤労報国隊で働け」と。腕が不自由なので不安だったが、家にいても食べるものもなく迷惑をかけるため、一九四五年の三月頃でしたが、釜山に行きました。
 釜山の第二埠頭で、軍隊の衣服や皮製品など船から降ろされた軍需物資を倉庫に保管したり汽車に積み込む仕事です。力仕事はできないが日本語が達者ということで、いつのまにか千人以上の労働者の責任者をやらされました。
 そうこうしているうちに八月十五日を迎えた。解放されたと聞いたが、日本はあれほど執念深い国だから戦争に負けるはずがない、デマだと思いました。だから当日も翌日も仕事をやった。町のどこそこで日本人巡査・兵士が殴られたという噂も飛び交ったが、「そんなことを言うとひどい目にあうから絶対口にするな」と労働者に指示しました。
 解放を実感したのは翌々日になってからです。軍隊が規律に反して襟をはだけ、戦闘帽の顎ひもを取ったりしている。釜山港には、日本兵がわれ先にと、後から後から押し寄せてくる。それを見て、日本が降伏したのだと思いました。
 命令系統はなくなり仕事もなくなった。食料はあったので、それをみんなで食べ、帰しました。それでもまだ半信半疑で昌寧(チャンニョン)に帰ったのですが、学校長の亀崎定次郎が真っ先に逃げ、新聞社支局の者も荷物を持って逃げるのを見て、これで解放が間違いないと思いました。

【「兄貴の死」】
 解放されて村の人が一番最初にぶっ壊したのは神社でした。いつも朝夕連れて行かれ参拝させられた所でした。「日の丸」は韓国旗に塗り変えました。「日の丸」の赤い丸の下の部分を青く染め、周囲に線を入れるとちょうど韓国旗になる。日本兵は怒ったが、私はざま見ろと思いました。
 解放されるや、左翼も右翼も威張りだす。そんな混乱の中に、若い人たちが巻き込まれました。それぞれが自称なになにという部隊を作って論じ合っていた。仲間がそっちだからと、左翼陣営に行ったものは後にひどい目に遭います。
 私は、政治的に訓練を受けたこともない人間だったし、内地帰りという周囲の偏見、日本に協力したという自己嫌悪もあって関わりませんでした。また、生活に追われていたため活発な動きはできませんでした。
 両親は、朝に夕に兄貴の帰りを待っていました。日本からヤミ船に乗った村人が順次帰ってきます。それでもなかなか帰ってきません。お母さんは、夕方になると表に出て帰りを待つようになりました。
 寒い冬のある日、兄貴と一緒の炭坑にいたという隣村の人たちが紙切れを一枚持って来て「死にました」と告げました。それでも両親は信じません。お母さんは私に「おまえの兄は学があるし、利口だから必ず帰ってくる」と言います。
 私は紙切れを見て、確かに死んだなと思いました。「こんなことがあってよいものか。日本人は人間じゃない」と、怒りがわいてきました。
 兄貴は一九四五年十一月四日、北海道の病院で死にました。書生だった兄貴は、筆より重いものを持ったことがない人です。それが、ふんどし一枚で地下何百メートルの炭鉱に入れられて強制労働。後に、日本に帰化した経理担当者(当時)から聞いた話ですが、三井の子会社だった北炭夕張は、新鉱を掘るときは石炭脈が出るまでやらせた。そのためノルマが課され、達成しないと地上に出られなかったらしい。病院といっても、薬も食べるものもなく、見捨てられたのでしょう。
 兄貴は連行された時、すでに結婚していました。たしか、結婚後間もない三、四か月の頃です。兄嫁は、恐い義父の下で尽くしながら、ずっと兄貴の帰りを待っていました。私は兄嫁をふびんに思い、何度か再婚をさせようと手をつくしましたが、「とんでもない」と断られました。

【「親不孝」】
 お母さんは兄貴の死を伝えられてから酒を飲むようになりました。当時、中年の女性、それも母親が酒を飲むというのは一種の事件です。苦しい胸のうちを吐き出すためだったのでしょう。酒を飲んではよく兄貴のことを話し、「いつかはきっと帰ってくるだろう」と言っていました。
 そのうち土俗の信仰をもつようになった。キリスト教や儒教とは違って木や石に祈ります。村外れの山に大きな木がありました。そこに行っては兄貴の帰りを祈っていました。何かにすがりつかないと、とてもたまらないといった心境だったのでしょう。
 父さんは、猛烈な酒浸りになりました。ただひたすら長男の帰りを待っていた父さんにしてみれば、ほかの四人の子どもより、一人の長男の方が大切だった。私はいたたまれなくなった。どうせならソウルに行って一旗揚げよう。一九四六年の春のことでした。
 解放後、ソウルには何百という団体があちこちにできた。当初は朝鮮警備隊に入ろうとしたのですが、腕がだめで、青年団に入りました。大韓青年団といって、今思うに、政治的には自由党の院外団体みたいなところだったと思います。
 そのうち朝鮮動乱が始まった。家はどうなったろうかと、ふと思い出した。帰ろうと思い、「青年団を辞めます」と言ったら、周りから「おまえは裏切るのか」と言わんばかりに怒られた。しかし、団長は「それじゃ、家の様子を見に帰ってこい」と言ってくれました。
 昌寧(チャンニョン)の自宅に帰ってみると、誰もおらず、大邸(テグ)の永川(ヨンチョン)に引っ越していました。
 お父さんは、お酒がたたったのでしょうか、動乱が起きてすぐ亡くなったようです。死に目に会えませんでした。
 それでもお母さんは長生きして、一九八九年、八十九歳で亡くなりました。父さんの執念を引き継ぎ、兄貴の帰りをずっと待って生き延びたのだと思います。
 私は夜中によく夢を見ました。韓国には、「上の歯が抜ける夢は、父母の死を意味する」ということわざがある。戒厳令の時代は夜十二時から午前五時まで通行禁止なので、規制が解かれる時間まで待って、「だいじょうぶか」とすぐ飛んで行ったものです。
 私はお母さんには親不孝をしたと思っています。兄貴が亡くなったと分かってからは私が家に定着すべきだったのに、旅がらす根性というのでしょうか、飛び出す方が好きでしたから。

【「朝鮮動乱」】
 ソウルの青年団にいた一九五〇年、突然「朝鮮動乱」が起こりました。私は、青年団の中で軍隊に志願した者を除いて、残ったみんなと釜山へ避難しました。第一次避難です。首都も大統領も釜山に移った。戒厳令がしかれ、大変だなと思っているうちに、アメリカ軍が上陸してきて釜山は軍需物資の集結地になってしまいました。
 しばらくしてソウルを奪還したというので、戻って街を再建しているうちにまた第二次避難です。この時は物すごい吹雪の中を南に向かいました。列車の運行はアメリカ軍の指揮に入っていて、軍の命令がないと列車も動かない。戦火の中、釜山に行くのに三、四日かかりました。
 朝鮮動乱では人的資源の疎開が大きな意味を持っていた。人を残していったら北の軍隊が捕らえて利用するだろうというので、それを防ぐためにみんなで逃げました。ソウルの漢江にかかる橋は壊れている。氷の川を、荷物を担ぎ子どもを背負って逃げます。渡る途中で氷が割れ、落ちて溺れ死んだ人も随分いました。
 動乱当時、妹が、アメリカ軍の通訳をしていた人と結婚して江原道(カンウォンド)の原州(ウォンジュ)に住んでいました。「兄さんがそばにいると心強い」と言うし、仕事があるというので私も江原道に行きました。それが、現在私が同じ江原道の春川(チュンチョン)に住み着くようになったきっかけです。
 原州では、アメリカ軍の補給部隊の労務者として働きました。ペインターで、看板に字を書く仕事です。兵隊に頼まれて補給タンクに「火のかたまり」とかニックネームを書いてやると、喜んで現金をくれました。
 朝鮮動乱は江原道にいた一九五三年に終わりました。飛行機からの拡声器放送やビラで知らされました。しかし、動乱が終わったといっても三十八度線はそのままです。いつまた同じ民族間で紛争が起こるだろうかと心配でした。あれから五十年、今もまだにらみ合っている。私の世代は生まれてからずっと、戦争の中で生き延びてきた。人間としての潤いのある生活をしていない、不幸な世代だと思います。
 アメリカ軍も引き揚げていき、仕事がなくなった。私はペインターとして稼いだお金で山を買って伐採・製材の仕事を始めました。ちょうどソウルは焼け野原になっていて、再建のため木材がいくらでもいる。ばんばん売れてうんと儲かりました。お金はお母さんと弟夫婦にも送りました。

【「戒厳令」】
 一九五三年の朝鮮動乱終了後、江原道で伐採・製材の仕事をしながら、与党・自由党の活動をやりました。当時、事業をやろうとすれば、与党にいないとだめなんです。山の木を許可なく伐ったり、税金対策など、与党の活動をしていると便宜をはかってもらえる。
 そんなわけで、三十八度線に近い麟蹄(インジェ)という町の副委員長をやり、ソウルに出かけたり、元いた青年団と連絡し合ったりしていました。
 一九六〇年、自由党の李承晩(イスンマン)大統領が辞任。翌年、朴正煕(パクチョンヒ)によって軍事クーデターが起こります。朴は、日本の陸軍士官学校を卒業した親日派の少将でした。ソウルが制圧され全国非常戒厳令がしかれました。その時、私の「親分」にあたる青年団の団長だった人が、捕まり処刑されました。政党の活動は禁止され、製材業の許可も取り消されました。
 私は、こんな有り様ではこの世が成り立たない。これからは野党でないと、人間としての生きがいがなくなると思った。以降、麟蹄から今住んでいる春川(チュンチョン)に移り、KCIA(韓国中央情報部)と衝突。連行されたり、住まいを転々したり、ものすごい野党活動をやりました。
 あの時代は、共産主義という言葉を出しただけで、刑務所行きでした。もし、日本に行った人が在日の朝鮮総連の人にでも会おうものなら大変なことになります。総連は共産主義、それは敵、という公式でしたから。
 誰かから「あの人は左寄り」と通報され、しょっぴかれる国民相互監視の時代でした。国民総背番号制度ができ、一人一人に住民登録ナンバーがふられ、十八歳になると警察で十指すべての指紋押捺をさせられる。登録証には親兄弟に前科者・手配中のものはいるかなど、いろんな情報が入っている。四六時中携帯が義務付けられ、管理されました。
 私が結婚したのは朴政権の時代です。だから妻も苦労したと思います。彼女は、ソウルの洋裁店でデザイナーの仕事をしており、スターや国会議員の注文を受けるほどの腕前でした。江原道にいた私の妹がソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)で洋裁店を始め、近所の同業の知り合いだった彼女を紹介したのが、きっかけです。
 彼女は最初は、私を怖いお兄さんと思っていたのでしょう。しかし、悪さをする地方の兄さんたちが彼女の店に出入りするのを注意したりしているうちに、自然と。

【「遺族会」】
 朴正煕大統領が殺害され、朴政権は一九七九年に幕を閉じた。民主化も束の間、全斗煥(チョンドファン)がクーデターを起こし、軍事政権が続きました。
 政治活動が禁止される中で、後に大統領となる金泳三(キムヨンサム)らは民主山岳会を作ります。山登りは政治活動ではない、登山しながら話し合いもできる。これは、政権をとるための組織づくりでした。私は、江原道で民主山岳会を作りました。
 遺族会の運動も朴政権の十八年の間には、無理でした。朴政権に虐殺された「遺族会」を名乗り上げた途端、連れて行かれ殺される事件があったくらいです。当時「遺族会」を作るというのは危険極まりない運動でした。
 韓国内にようやく遺族運動が芽生えてきたのは一九八〇年代後半からです。太平洋戦争犠牲者遺族会が出来ました。
 私の目が戦後補償問題に向き始めたのもその頃。八七年に全斗煥大統領が辞め、新憲法が公布。それまで、軍事独裁政権との戦いに費やしていたエネルギーを日本に向けられるようになりました。お母さんの遺言も気になりました。「兄のお骨を捜し出して大きな墓を作りなさい」。兄貴の仇を討とうと思いました。
 私は、太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会を作った一人です。遺族の話は涙なしには聞けません。戦争中に死んだ人はまだ楽なんです。七十代、八十代のおばあさんが、二十代の夫の面影を偲びつつ、今日か明日かと待っている。こんなことがこの世にあってはならない、と遺族会の運動をやってきました。
 現在約八百五十人の会員がいます。参加意識をもつことが大切なので会費を集めていますが、長い間払えない人もいます。会員は、日本に父や兄をとられ、大黒柱がいなくて経済的には非常に厳しい。一方、韓国政府の理解もない中では事務所の維持費や人件費も大変。私も、アパートやビリヤード場など相当の資産をつぶした。
 私は兄貴の遺骨を捜そうと、北海道夕張警察署長あてに事実確認の手紙を出しました。朝鮮人が渡航する時は必ず警察に届け出たので、経過がわかると思った。しばらくして「手を尽くしたが見当たらない。北海道庁の資料担当に聞いた方がよいのでは」との返答。
 そこで兄貴の遺骨捜しの資料集めにと、一九九一年、遺族会のメンバー二人で飛行機に乗って日本に向かいました。解放以来初めての日本でした。

【「提訴」】
 東京では民宿に泊まり、兄貴の消息を調べるために国会図書館に行きました。図書館の職員に強制連行関係の資料を尋ねても「そんなものあるかな」との返答。そこで当時の発行物を片っ端から検索していくうちに、なんと日本鋼管での私たちのストライキのことが載っている『特高月報』昭和十八年四月分を見つけました。
 「『半島技能工の育成』と題するパンフレットに端を発する紛議」と書かれている。懐かしい事件がよみがえってきました。
 さっそく私はそれをコピーし、書店で『一人でも訴訟はできる』という本を買って宿に帰りました。帰国が迫っていたので、訴状だけでも出して帰りたいと思った。一晩中かかって、訴状らしきものを書き上げました。
 兄貴にしても私にしても、当時は日本人として日本の法律の下で犠牲になった。それが国籍条項でいつの間にやら外国人扱い。作った訴状は、補償せよという内容ではなく、日本人と同様の扱いにせよというものでした。
 私は、訴状を出してその後どうなるかも知らなかった。日本に行ったら映画『アリランのうた』の監督である朴壽南(パクスナム)という人に連絡してみたらいいと聞いていたので、電話をしました。「訴状を出してから帰ろうと思う」と知らせたら「それは大変なことだ。企業を相手に日本では最初の裁判を起こそうとしているのだから、ちょっと待ってくれ」と。
 急きょ集まってきたのが田中宏さん、内海愛子さんたちでした。日本鋼管訴訟を支える会の事務局長をやってくれた谷川透さんともそこで出会いました。
 一九九一年九月三十日、私は手書きの訴状を東京地裁に出しました。六十歳を超えてからの闘いの始まりでした。
 以来、谷川さんは財産も投げうって支援してくれた。日本人が朝鮮人を支援して国家に盾突くというのはどうも納得いかない話。私は谷川さんに「なぜ私たちを支援するのか」尋ねたことがあります。すると「それは私の哲学ですよ」といった答えが返ってきた。自分の問題として受けとめていることに感心しました。
 今でも脳裏に焼き付いているのは、東京地裁で判決がでた時のことです。私は、抗議して裁判所の建物の中で座り込んだ。そこで死んでもかまわないと思いました。「日本人の支援の方には迷惑をかけたくないので出ていって下さい」。谷川さんはその時病気でしたが、「死なばもろとも」と、一緒に座ってくれた。忘れられません。

【「納骨堂」】
 訴状を提出したことで私は半分は希望を達したと思いました。賠償金をとるとらないの問題ではなく、日本帝国主義の非道を公にして、次の世代に二度とこのようなことが起こらないように警戒心を促すことに意味がありました。
 日本鋼管との闘いに勝利したときは、やっと道が開けたと思いました。あてのない、疲れるばかりの民族運動に血と汗を流してきたが、努力すれば必ず成るという歴史的な教訓を学んだ。また、身銭を切って支援してくれた日本の人たちがいる。この運動を介して、後世に人類愛というものを示せたと思います。
 提訴したとき、妻は「今さらそんなことをしてものになりますか」と変な顔をしていた。家庭の主婦だったから、金銭的にやり繰りが大変だったでしょう。それが、私に付き添って日本へ来て集会に出たり、私のやっていることを見て、これは偉い人だと思い込んでしまったらしい。純真な主婦が今では「やりがいがあった。何かあったらまた打って出なさい」と、闘士に変わりました。
 貧しい団体である遺族会。私は私財を度重なる渡航費用にあて裸一貫となりましたが、人生には何ら悔いはない。「我が道、我が人生に悔いなし」です。
 日本鋼管・不二越という二つの軍国主義的な会社を相手に闘い、勝利したことに私は自負心を持っています。しかし国家を相手にした本命の江原道訴訟が解決していないのが悔しい。一九六五年の日韓協定の化け物がいまだにわれわれを苦しめています。この訴訟は、日韓協定に風穴を空ける闘いでもあります。
 私は春川(チュンチョン)市内の山の一角に納骨堂を作りました。兄貴の骨を捜しに北海道に行ったが、あの山この寺に捨てられた主のいない骨が山とあった。日本がわれわれに対して無残な仕打ちをしたことを後世の戒めとするため、骨とお寺にあった過去帳の写しを持ち帰りました。どこにこの骨があったのか、なぜ死んだのか、納骨堂を建ててその旨をちゃんと記し、実証として残したかったのです。
 改めて振り返ってみるに、戦局の厳しい中での日本鋼管での集団抗争。裁判でも明らかにしなかったが、戦艦大和の大砲をつくる機械の配電盤に水をぶっかけた。無謀極まることだが、やらざるをえなかった。あの行動は民族として当然とるべき行動であったと思っています。幸いにして命永らえて、ここに書く幸運を得たのは、心ある日本人の皆さんのおかげであることは言うまでもありません。

【「姉」】
 半年の間、夢中で書いているうちに最終回を迎えました。なぜ、「我が人生 我が道」を書かなければならなかったか。私は命があまりない、これだけは言っておきたいという切羽詰まった気持ちに駆られたからです。
 話は戻ります。兄貴が徴用対象になったとき、私が身代わりになって行くと言ったのですが、実は、それではなかなか難しかったことを、後で聞きました。
 私の故郷の昌寧(チャンニョン)は南部の中心地・大邸(テーグ)と隣接しています。大邸には日本の陸軍二十四部隊が駐屯していて、度々、三八式歩兵銃を抱えて昌寧まで四十八キロの行軍訓練をしていました。そして演習地での将校の女の世話は、所轄面長の責任で行っていました。
 私には貧乏人には似合わない美人の姉がいます。日本人の憲兵はそこに目をつけた。面長の川村仲太郎は、私が兄貴の代わりに行くといっても絶対だめだと言っていたのに、ある日突然承諾した。その裏には、姉が将校の相手に出されるという惨事があったことを当時は知りませんでした。
 物言わぬ性質の姉は非常なショックを受けたと思います。人生の華やかなるべき時代を暗黒の世界にさまよったのであり、その後は一人の子もなくむなしく老い、一九九九年にガンで亡くなりました。
 父を治安維持法違反で留置場にぶち込み、絶対行かせないと約束していた兄貴を北海道に連行して死なせ、私を日本鋼管へ行かせ、姉までも人身御供(ひとみごくう)にした。
 姉の件は、口が裂けても言わないつもりでした。しかし、このまま言わなければ一家がどのように破壊されたかわからない。日本帝国主義の不法侵略のかげに、このような家族があったことを後世に証言する気持ちで書きました。
 私は死ぬまで闘います。

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:17 | 関連1. 第一次訴訟

「我が人生 我が道」金景錫(中)

【「一冊の本」】
 夜はなかなか眠れないので私はよく本を読みました。川崎駅の有隣堂という、今は駅の地下に移動している書店ですが、そこに行った時のことです。何気なく見ていると『半島技能工の育成』という本がある。手に取ってパラパラとめくってみたら、私たち自身のことが出ているんです。
 国民勤労研究所というところが、「半島労務者の取り扱い」について日本鋼管の高浜労務次長に聞いたものでした。確か二十銭だったか記憶は定かではないが、買ってきて、じっくり読んで見ました。一九四三年三月、連行から半年ぐらいたった頃でした。
 そこにはこんなことが書いてありました。「訓練工の賃金は内地工同様、賃金統制令により何ら差別はしていない」「給料を取ると収入の七、八割を送金し後は小遣いに困る者、靴とかワイシャツとか高価なものを買って小遣いがない者もいる」「収入を管理する意味と、逃亡を防ぐ意味で、手取りを二十円ぐらいにして、残りは強制的に貯金させろという案も出ている」といったデマや詭弁。
 「彼らの態度で一番目立つのは常にだらんだらんしていて、いかにも怠惰らしく見える」「同年令の内地工に比し、機能方面が非常に劣るように見受けられる」。さらに、「食わせれば際限なく食べてお腹をこわす者が多いので、多少はご飯が足りないという連中もあるが、それも慣れの問題」「湯茶は内地人の倍以上は飲む。特に、夏場の作業の時は猛烈で、いくらとめても飲み、結局はお腹をこわす」といった調子でした。
 もう頭にきちゃって。民族侮辱的な数々、あれほど会社に尽くして一生懸命働いてきたのに、何でそんなことをいわれなければならないのか。韓国での日本人巡査や日本人教師への怒り同様に、日本という国に対して、日本人に対して批判が生まれました。
 私は、各寮の主だった幹部に声をかけ集まってもらった。本は鶴見や扇町の寮にも広がり回し読みされました。「こんなばかなことがあるか」とみんな怒りました。誰からともなく、会社の正門の横にある請負の須田町食堂に集まっては、本のことを話すようになりました。
 それから一か月、食堂従業員とある訓練工の間のいさかいをきっかけに、多くの朝鮮人労働者が食堂に詰めかけました。「会社は謝れ」「帰国させろ」と言って、約五百人が集まりました。

【「雨の日のストライキ」】
 一九四三年四月十日。その日は雨でした。須田町食堂に朝鮮人労働者の半数以上の五百人が集まると、会社側はなだめようとしたのか懐柔に出たのか、たくさんの食物を出してきました。おかずにいい物があったし、何度食べても文句は言われなかった。みんなはこれ幸いとばかりに、あきれるほど食べました。闘争の現場というより食べる現場でした。
 演説したり、独立運動の話をする人はいません。みんなが「侮辱されてはいられない」「家に帰ろう」などと話していました。
 「現場に行かずになんでここに集まっているんだ」と言われ、私は「誰がわれわれにそうさせたのだ。責任者を、高濱次長を呼んでこい」と答えた。私の指導員であった藤倉沖房がとんで来て「金城ちょっと来い。現場に戻れ」と言ったが、ききません。夕方になっていったん寮に戻り、翌日また食堂に集まりました。
 その日も雨でした。食堂いっぱいに座り込みました。夜勤の者もかけつけてきて工場生産はストップしました。警察や憲兵もやってきた。顎ひもをしめ軍刀・拳銃をぶら下げた半マント姿の憲兵。十文字に割って入り、「絶対となりの者と話すな」と言ったが、ききません。韓国ではうれしいときも、悲しいときも、よく『アリラン』を歌います。みんなで歌いました。
 朝鮮人の議員のパクチュングンも来て「俺はパクだ。おまえたちこんなことしたらだめだ」と言った。私たちは意気軒昂で若い血がたぎっている。「なんだこの野郎」といってたたき帰しました。「最初の約束はこんなはずではなかった」「謝れ」「食事を改善せよ」などと口々に叫びました。
 私は、このまま騒いでいるだけじゃしようがないと思い、手を挙げて憲兵の指揮者に者を申しました。「本に書いてあったことをまず謝れ。食事を改善せよ。この間仕事についていないが、出勤したことにせよ」といった条件を出しました。
 私は同盟罷業(ストライキ)とかをまったく知りません。前日に「日本国体研究所」と名乗る人がやってきて私にコーチして帰りました。なんでも朝鮮人の大学生の集まりとかで、うわさを聞いて東京からやってきたとのこと。秘密裏に会いました。「何々を要求せよ。最後まで絶対がんばれ」とか言っていました。彼らに会ったのはそれっきりです。
 憲兵は私に、「言うことはそれだけか」と聞きました。「そうです」と答えると、「じゃ、おまえちょっとこっちへ来い」と。大型パイプを作っている第二製管の事務所に連れて行かれました。

【「弾圧」】
 連れていかれた事務所では特高(特別高等警察)が「誰がお前たちをそうおだてたのか、正直に言え」と背後組織を探ったり、「お前の田舎はどこか、兄弟は何人か」と根掘り葉掘り聞いてきました。私は「今はそんなのんきなことを言っている場合ではない。早く現場に戻って、犠牲者がでないように」と言い返しましたが、殴る蹴るが始まりました。
 ちょうどその頃食堂では、指導員の藤倉が「私に責任がある」と言ってみんなの前で、自分の指を包丁で切ってしまった。やくざ世界の詫びってやつでしょうか。血がぱっと流れ出るのを見て若い人らは興奮し、「死んでも動かない。金城はどこに行ったのか」と騒いだらしい。
 年のいった相当階級の高い特高だったと思います。剣道の竹刀で私を叩いた。打たれた瞬間、竹が割れるようになって肉をはさむものだからすごく痛い。頭は殴られてこぶだらけ。両手は後ろ手にされ紐で吊されました。細い紐だから食い込んできて相当痛い。人間の重さでちぎれて死ぬのではないかと思ったほどです。
 外は雨。事務所の床も出入りする警察や憲兵の靴ですっかり濡れていました。そこに転がされては蹴られる。犬ころのように扱われました。人間、こんなに殴られても死なないものかと感心するぐらい殴られました。気を失いました。
 私と同じ寮に金善在という先輩がいます。彼は、町に出るときは先をとがらせた長いドライバーを持っていき、家の壁を「なんだこの野郎」と言っては突いて歩いていました。私は、一般住民には迷惑をかけるなといっていたのですが。その彼と趙昌基の二人はこの時行方不明になりました。
 『特高月報』によれば、四月十二日に「首謀者十五名を検挙」とありますが、五十名ぐらいはいたと思います。月報に、「金善在はパンフレット問題発生せるを以て好機至れりとなし、之を民族独立の観点より指導した」と記されています。行動の面では私でしたが、教養の面では一枚も二枚も優れた人でした。
 後に、立教大学の山田昭次先生が横浜地方検察庁に金善在の消息を調査依頼したが分からず、春川(チュンチョン)にずっと住んでいる弟さんに聞いても日本に行ったきり帰っていないとのことでした。当時、日本鋼管の運河で死体を見つけたという話がありました。彼が連れて行かれた警察と運河はつながっているので彼ではないかと思っています。
 山田先生が聞き取りのためやっと弟さんに会えたのですが、みやげを渡そうとしたところ「日本人のものはいらない」と言って絶対受け取りませんでした。

【「釈放」】
 どのくらい時間が経ったでしょうか。気がついてみると床に転がされていました。話し声がするので聞いていると、警察らしき者が「こいつはもうだめだから出してやれ」と言っていた。会社の職員らしき者は「会社で死なれると困るからそちらで始末してくれ」とやり合っていたようです。
 その頃現場の方では交渉が始まっていた。会社は「どうしたらおまえたちは解散するのか」と聞いた。工場の炉は常時動かしていないと中の鉄が固まって壊れてしまう。日本人は軍隊に行っていて、クレーンも製鋼も製管もほとんど私たちが現場を担っていたので、会社はこのままでは大変だと思ったらしい。
 みんなは「金城はどうした。殺されてるんじゃないか。金城を出したら無条件に現場に復帰する」と要求した。そこで会社は私を釈放しました。釈放前にまた死ぬほど殴られました。友達が飛んできて私を担ぎ食堂から二キロぐらいある寮まで連れて帰ってくれました。
 肩甲骨を骨折し、腕は脱臼、身体中がむくんでいました。鎮痛剤などなく、湿布でしのいだ。中には勇敢な者がいて、寮の指導員に「病院に行かせろ」と言った。指導員は「非国民は病院に行かせるわけにはいかない」と拒み、治療は受けられませんでした。現場組長の吉田梅蔵はかわいそうにと思ってか、腕が使えない私に軽い仕事をさせました。午前中現場に行って午後からぶらぶらする毎日でした。警察はその後もしょっちゅう顔を出していました。
 スト以来、会社は少し変わりました。『半島技能工の育成』に載った高浜労務次長はいなくなり、朝鮮人労働者はあまり殴られなくなった。食事もいくらか量が増えた。検挙されていた約五十人は二人を除いて帰ってきた。会社の方も、人手不足なので帰してくれと警察に頼んだようです。
 私が病院に行ったのは六か月後。日本鋼管病院で手術を受けたが手遅れで、元の身体には戻りませんでした。大手術だったので、痛いし、熱は出るし、喉は渇く。それで氷のうを破って中の氷を取り出して食べました。なんとおいしいこと。病院の備品のゴム製品を破ったのですから普通だったら大変なことになります。
 しかし、もう一つの氷のうを破って私の口に氷を入れてくる人がいました。看護婦で二歳年上の吉田いくさんという方でした。吉田さんは私にこう言いました。「あんたは死んではいけない人なんだ」。

【「ある別れ」】
 看護婦の吉田さんとは、入院する前から面識がありました。それで私がなぜ入院したのか事情も知っていた。退院後、通院していた時にもところてんやせんべいをくれたり、良くしてくれました。私ばかりでなく朝鮮人に差別なく親切にしてくれた。あの時代としてはめずらしく理解のある人でしたね。
 退院してからもぶらぶらする生活。私はもう日本にいてもしようがないと思い、帰国を決意しました。指導員は「帰さない」という。「どうしても帰さないなら自殺する」と言ったもんだから、これは大変なことになると思ったらしく、労務係から間もなく帰郷証明書が発行されました。この証明がないと、下関までの切符が買えません。しかし帰国の旅費はもらえず、預金も返してもらえませんでした。
 「おまえが帰ったらわれわれはどうなる」という友達に、「身体がこうなので何もできない、みんなの邪魔になるから帰してくれ」と頼みました。友達は三、四百円の餞別を集めてくれた。国に帰ってからもしばらくは生活ができるぐらいの大金です。どぶろくを買ってきて寮で送別会。みんなでアリランを歌いました。
 寮を出て駅に向かうには、小田踏み切りを通らねばなりません。そこを渡ったとき、万感胸に迫ってきました。「これで日本とさよならか。今度はいつの日かわからないが、絶対無意味には帰ってこないぞ」。
 東京駅には、ひとり吉田さんが見送りに来てくれました。出発の前日になって「明日帰るから」と言い出したところ、「私も行く」と。吉田さんには事前に友達が連絡していたようです。当時、強制連行の朝鮮人が日本人女性と付き合うなんて、とんでもないこと。お互い純真だったので友達からはうらやましく思われていました。
 夜出発の汽車まで長い時間がありました。いろんな出来事が思い出され、胸が詰まってあまり話ができませんでした。時間が迫ると吉田さんは私に駅弁を持たせようと走り回ってくれました。泣かれました。ホームの柱の影からしんみりと見送ってくれました。
 吉田さんには国に帰ってから手紙を出しませんでした。十八歳の私でしたから、日本でこんなにまでやられたとの感情の方が強く、女性であろうと男性であろうと日本人は憎悪の的で信じ切れなかった。解放後は生活に追われ、また朝鮮戦争が始まり、軍事クーデターが起こって日本に行ける状態になかった。気にはなりながらも、時がどんどんたっていきました。
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:16 | 関連1. 第一次訴訟

「我が人生 我が道」金景錫(上)

【「麦峠」】
 私は、一九二六年四月二七日に韓国の南部の慶尚南道昌寧郡昌寧で、金家の三男二女の次男として生まれました。先祖は両班という、文武の官僚に任じられた金持ちの特権的身分だったようですが、私の育った頃は経済的基盤はありません。父親はお酒のみで、母親の農業と六歳年上の兄のわずかな収入で生活をつないでいる状況でした。
 昌寧はかつての新羅と百済の境界地に位置します。人口三万人の郡の中心地でしたが、特別な産業も港もありません。鉄道もなくへんぴな所で、ほとんどが農家でした。
 一九一〇年に朝鮮総督府が設置され、土地調査事業が本格的に開始されて、何月何日までに土地を登録しなければ政府のものになるというかってな法律が作られました。「自分の土地だからそんなことしなくても」と思っていた、あるいは何も知らなかった農民たちの先祖伝来の土地は紙切れ一枚で奪われ、ほとんどが自作農から小作農になりました。
 私次が少年の頃は産米増殖計画(一九二〇年)に基づく米の供出というのが大きな負担でした。面識人(村役場の職員)が畑に行って農作物を全部調べます。稲作が五石とれると判断したら「おまえは五石を政府に納めよ」と決める。自ら作った米を食べることはできず、供出米は安く買い取られて高い配給米を買わされる仕組みでした。
 農民たちの生活は、麦の刈り入れ前にはほとんどの食料が途絶える状態。今年は生きてこの期を越せるだろうか、これを「麦峠」と呼んでいました。
 何年も雨が降らず日照りが続いたため、少なからぬ人々が開拓団という名で家族ぐるみ「満州」へと追いやられました。そこへ行った人はまだましな方で、年寄を抱えた人などは行けない。それで近くの日本に出稼ぎに行き、炭鉱や工事現場で働きました。日本に行くには警察の渡航証明が必要ですが、“親日”であることが要件です。しかも労働力となる本人のみで家族はだめ。残された家族はわずかな送金で飢えをしのぐ生活でした。
 昌寧はそういう土地柄でした。

【「無言の逆らい」】
 学校は地元の昌寧小学校です。校長は山口県出身の亀崎、担任は鹿児島県の山下という日本人でした。先生はゲートル巻きの戦闘帽姿。私たちは毎朝、「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌わされました。
 校内には小さな神社が作られ、朝夕、神社参拝。皇居の方角にある神社に最敬礼します。やらなかったり、そっぽを向くと殴られました。しかし私たちは皇居や神社が何たるものかわからない。朝鮮人の先生に「あの神社の中に何が入っているか」と聞いたら、「三種の神器の鏡ぐらいだろう」と。鏡に向かって、朝に夕に何故お辞儀しなければならないのかと思いました。
 覚えなければならなかったのが「朕思うにわが皇祖高宗」といった教育勅語です。学校ばかりでなく町の中でも、日本人の先生に見つかると「おい、お前こっちに来い。教育勅語言ってみろ」とやられます。できないと大変なので誰もが空覚えしました。
 教科書には天照大神が天の岩戸を開けて光が射し込む挿し絵が載っていて、天皇は万世一系だと教えられました。担任は「天皇は神である」と常々言っていました。
 ある日、先生が「大きくなったら何になる」と聞いたことに、友達の一人が「私は天皇になる」と言ってしまった。「おそれ多くもけしからんことを」と怒られ鞭を打たれ、しばらくは先生たちからいじめられたようです。
 私は学校では日本語、作文、算数が良かったと思います。それでしばしば教壇に上がらされ、発表したり解いたりすることがあります。ところが話しているうちに、つい「一升ビンに水二升は入らない」と言って日本式の押し付けを批判する。そのため教室から連れ出され正座させられました。
 担任はまるで犯人でも捕まえたかのように横にいて、他の先生が通るたびに私を殴ってみせます。通りすがりに「こいつが例のあいつか」と言ってはげんこつをする先生も。日本人と違って私たちにとって正座は拷問のようなものです。日本人がやって来てどうしてこういじめるのか、私たちの祖先がどんな悪いことをしたというのか、どうしてもわかりませんでした。
 小学校は二種類あって、私たちは普通小学校。日本人の旅館や新聞支局の子どもたちは尋常小学校に通っていました。秋の運動会は一緒にやりますが、絶対に負けるなという意識が強く、いつも大喧嘩になりました。サッカーの試合ではボールを蹴るより相手の向こうずねを蹴る方が多かった。誰かが教えたわけではない、無言の逆らいでした。

【「鬼童」】
 村全体でもサッカーが盛んでした。とはいってもお金がないので屠殺場に行って牛の胃袋をもらってくる。空気をつめて膨らまし、ひもで縛ってボール代わりに蹴り飛ばしていました。結構割れないものです。専門の靴もないので、わらじを履いてやりました。
 試合は十一人ではなく数十人でやるので、敵味方もわからない。そんなことはどうでもよく、とにかくボールを蹴飛ばしたほうが勝ち、というものでした。
 年に数回の村の市には地方から民族衣装を着て、朝鮮伝統のちょんまげを結った人々が集まってきます。すると日本の巡査が捕まえて「非国民だ」と言い、その場で髪の毛を切り落としました。朝鮮には、髪といえどもおろそかにするなという儒教の教えがあります。髪を切られることは大変な恥辱だと、中には自殺した人もいました。
 着物は、男性も女性も白い服を着るのが正装です。市に白い服を着てきた人々に、黒い塗料の付いたホウキで汚してまわる日本人巡査を目撃しました。子どもなりに悔しい思いをしました。朝鮮民族の表れは一切許されなかったのです。
 私たちが通った小学校は義務制の尋常小学校とは違い、お金を徴収されます。六十銭の授業料と一銭の国防献金です。六十一銭を払わなければ、通信簿がもらえない。なんとか払って手にした通信簿をみると、私のことが「鬼童」―鬼の子と書かれていました。
 ある時、父親を呼びだす手紙を学校からもらいました。渡してもしょうがないと、封を開いてみました。「鬼童について相談があるからちょっと来い」と書いてある。先生には、父は忙しいとか病気だとか二、三回ごまかしているうちに、ばれました。罰として掃除道具を入れる教室の床下に入れられたものです。他の子をよく殴る、言うことをきかない、それでいて勉強はやる。手に負えない奴だと見られたのでしょう。
 しかし、私たちをかばってくれた先生もいました。確か近藤という先生だったと思います。家に来い、とよくかわいがってくれました。羊かんやあめ玉などくれました。その先生は数学なんかもすぐ解いて実力のある人。どんなことがあっても生徒を絶対殴ったことのない先生でした。
 学校には朝鮮人の先生もいました。朝鮮語を教えていた先生でしたが、授業中、警察がやって来てみんなの前で連れ出されました。そのまま帰ってこないので後で聞いたら、縄で縛られて連れて行かれたらしい。その先生、実は解放後に刑務所から出て国会議員にもなった人でした。

【「奪われたことば」】
 野蛮な植民地政策は、南次郎という人が第七代朝鮮総督になった小学校三年生の頃から激しくなりました。総督は歴代、軍人です。南は時の陸軍大将で関東軍司令官でもありました。
 「皇国臣民の誓詞」というのが制定され(一九三七年)、「一、私どもは大日本帝国の臣民であります」。これをやらないとお米や麦やゴム製の靴など配給されない。配給がないと生活ができないので、誰もが無理やり覚え込みました。食器は真ちゅう製ですが、これは砲弾にするといって全部持って行かれました。
 正月を前にして貧困底をついて、何も買えない。せめて正月の朝ぐらいはお米をたくさん出さなくてはと、母さんは一張羅の晴れ着を日本人の質にそっと入れ、三円とか借りてきたようでした。
 小学校五年頃になると、それまでは希望すれば教えていた朝鮮語の授業もなくなりました。学校ではもちろんのこと、家に帰っても朝鮮語を絶対に話してはいけないと言われました。「日本語がわからない父さんと話すときはどうするのか」と聞くと、「それでも日本語を使え」と。
 小さな罰金札を各人二十枚持たされます。もし話の途中で朝鮮語が出たら一枚ずつ取り上げます。中にはたちの悪い友達もいて、私の家の前で名前を呼ぶんですね。こっちは安心して「うーん」というと、「うーんと言うのは朝鮮語だ」といって札を取り上げる。小さい子ども同士が相互監視するシステムが作られました。
 そのうち算数・理科・国語などの授業もなくなり、近くにある農作物の実習地に行って麦や芋を作ったり、人糞を担いでいって撒いたりするようになりました。
 私の学校には卒業後、続けて通える二年制の農業補習学校があります。そこの先輩たちが、日本人の先生があくどいことをするから学校を辞めると、今で言うストをやった。私は、迷惑な話ですが、学校から離れた場所に逃げて遊んでいた先輩たちに見込まれ、使い走りです。そのことでまた、先生からにらまれて、殴られました。
 「独立軍が現れるかもしれない」「大きくなったら独立軍に入るんだ」と言っていた子もいました。独立軍は、鉄砲を担いで日本人と派手に戦いをやるので羨望の的になっていたようです。
 父さんから聞いたおじいさんの話も記憶に残っています。一八九五年に朝鮮の皇族の閔妃が日本兵に殺されて焼かれるという悲惨な事件があった。
 「そんなことがあってたまるか」と、おじいさんは嘆いた。白い喪服を着て、竹づくりの白笠をかぶって、南からソウルまで歩いていき、泣いてお悔やみをしたということでした。

【「金城」という名】
 父さんは「書生」でヒゲをはやした硬骨漢でした。私たちを集めて「お前たちは新羅の王様、敬順王の末えいに当たるから、行いを正しくし、いずれわが国の王様が統治する時までみっちり学問を仕込んでおくように」と言いました。村の金持ちたちには「お金だけが人生ではない」と言っていました。国防献金など出して威張っていた人たちからも「あの人にかかったらかなわない」と見られていたようです。
 父さんはカラスに向かって「こっちに来て酒を飲んでいけ」と話しかけるほど酒の好きな人。見識はあっても物持ちではない、収入のない貧乏書生でした。いわゆる両班階級のなれの果てが父さんの現実の姿であったと思います。
 私が十四歳、小学校を卒業する頃です。「氏」を戸籍に記載するため、朝鮮戸籍の記載方式を改定する朝鮮総督府令が出されました。創氏改名と呼ばれているものです。
 父さんは抵抗しました。韓国の家族制度は、日本のように同一戸籍の家族集団を示す「氏」というものはなく、一族の先祖の発祥地名と男系血族系統を示す「姓」による親族集団によって構成されています。そこに「氏」が入ってくるわけですから、家族制度に異変が起こることになる。大変なことでした。
 それでも結局変えざるをえなくなり、父さんは故郷の親族みんなで話し合って「城」という氏を創ることにしました。慶州は昔、月城(ウォルソン)と呼ばれていました。その一字をとったものです。これも抵抗の表れでしょうか。
 以来私は、「金城(かねしろ)景錫」という名前に変えさせられた。悔しかった。どうせなら、野良犬が連隊長になっていく漫画『のらくろ』が好きだったので、そんな粋な名前にでもと思ったものです。
 面長(村長)は「頑固な金が姓を変えたぞ、みんな習え」と村中言って回ったそうです。嫌で変えなかった人、無知で変えなかった人も「あの人が変えたのだからしょうがない」と。
 李さんは字の上の木を使い村をつけて「木村」という名前になった。金さんは田や山や川をつけて「金田」「金山」「金川」になりました。日本が作った戸籍には金を消してそこに金城と簡単に入れましたが、それは彼らの勝手で、何百年続いた私たちの家系図はそのまま残しました。
 私は、おじいさん、父さんと村一番の「反日不逞鮮人」の環境の中で育ったようです。

【「尽くした母さん」】
 父さんが収入のない生活だったので、ある金持ちの人が「それじゃ困るだろう」と田んぼを小作するよう言いました。しかし父さんは神様のような存在、結局、母さんに小作の仕事をやらせました。
 父さんは兄貴を、次の世代を継ぐ者だからと学校には行かせず、幼い時から漢字の塾に通わせました。「両班の家には学者がいなければだめだ」と。
 食事をとる時も父さんと兄貴が一緒で、石で作られた膳にご飯を乗せて食べました。おいしいものはみんな兄貴に食べさせた。待遇はすばらしいものでした。母さんや私たち兄弟は残り物を地べたにおいて囲むようにして食べました。
 私たち兄弟はみんな三歳違いです。私が十四歳の時、兄貴が二十歳で姉さんが十七歳、妹は十一歳、弟は八歳。みんな育ち盛りなのでおなかが空く。ですから母さんは、よく生きていたと思うほど自分はほとんど食べませんでした。
 部屋は二つありました。台所の方で薪を炊いて煙を床下に通し、外へ排気するオンドル部屋です。しかし、今のように暖かいお湯を通すものとは違います。昌寧は冬になると冷え込んで大変寒いところ。母さんは私たちの布団の端を押さえるようにして、自分は何も掛けずに部屋で見守ってくれました。
 父さんは夜中でも酒を買ってこいと言いつけます。母さんはすぐ飛び出すのですが、お金がない。知り合いに買ってもらって、あとでその家に行って仕事を手伝っていたようです。
 父さんが外でお酒を飲んでいる時、母さんは私たちを寝かせて、泣いていました。夜中、ふと目を覚ますと、泣いているのをよく見ました。母さんは、夫のため子どものために自分を犠牲にする、尽くすことを本分とするような人でした。
 小さいころ、本を読んで汽車というものを知り、汽車に乗ってどこか行ってみたいといつも思いました。寝てても汽車の走る音が聞こえてくるようでした。それである日、母さんにねだって小遣いをもらい、馬山(マサン)に行ったことがあります。でも、旅館に泊まるお金もないし、淋しくなってその日のうちに家に帰りました。
 母さんは私にとっては、どんなことを言っても怒らないやさしい人でした。父さんが怖い存在だったので、母さんまで恐かったらそりゃあ大変だったでしょう。

【「留置場の父」】
 父さんは戸籍から兄貴を外し、私を長男に見立てました。一九三八年に「国家総動員法」、三九年に「国民徴用令」が発動され、ものすごい勢いで動員が必要とされてきます。父さんは、長男である兄貴を軍隊に入れたり徴用に行かせまいと、わざと籍から外したのでした。
 ところが、村の区長がこれを警察に告げ口しました。父さんは日頃から「なぜ日本がわが国に入ってきて大きな顔をして歩いているのか、けしからん」と、当時の朝鮮統治に反対する発言をおおっぴらにやっていたんです。
 道知事は、ことあるごとに治安維持法を持ち出して取り締まっていました。父さんも、「けしからぬ不逞鮮人だ」と拘束されました。二十九日間は警察署長が自由に拘束できます。よく捕まって留置場に入れられました。
 私は日本語ができたので、ある日、父さんに会えるよう留置場の当直の日本人巡査に非公式に掛け合いました。巡査も「小さいのに日本語がうまく話せるものだ」と、妙に感心して会わせてくれました。
 木の柵の奥の方で縮こまっている父さん。その痛々しい姿に小さな胸も衝撃を覚えました。父さんはお酒を飲んでは言いたいことを言っていたが、それが何の罪になるというのか、不思議でなりませんでした。
 父さんに「不逞鮮人」というラベルが貼られると、学校での日本人の先生の態度も変わってきます。いろんな所でいじめられました。先生からはいじめられ、帰ってからはいつも父さんに怒鳴られ、不満だらけでした。汽車に乗って都会へ出る夢をよく見たのもそのせいでしょう。
 小学校を卒業してから都会に出てもっと勉強したかったのですが、貧しい生活ではそれもかなわない。それならと、卒業後、遠くに行けるチャンスのある自動車会社に勤めました。当時は木炭自動車ですが、私は車の掃除をしたり木炭を入れたり、助手として働きました。
 私は日本という所にも、うすうすながら関心を持っていました。田中絹代の『愛染かつら』を観て泣き、『大石内蔵助』『森の石松』を読んで意気に感じました。田舎には日本に出稼ぎに行っている人が多く、その人たちへの手紙の代筆など頼まれてやっていたので、近くに感じました。もちろん学校の日本人の先生や巡査は嫌いでしたが、実際はどんな所か興味があったのです。

【「兄貴の身代わり」】
 戸籍から兄貴を外したという理由で、父さんは留置場に結局四か月間ぶちこまれました。治安維持法によって警察署長が二十九日間留置するのですが、いったん釈放してはすぐまた捕まえるというやり方でした。
 警察から出てきた父さんは、兄貴を末の妹の後にして戸籍に名を入れましたが遅すぎた。炭鉱労働に従事するようにとの兄貴あての命令書が届きました。
 兄貴は普通小学校には行かず、村で一つしかなかった漢学の塾に通っていました。たいへん優秀で二十歳の頃には先生をやっていました。塾には四十名ぐらいの生徒がいて、その父母から授業料代わりに麦やお米がわずかばかりもらえました。一段階を終えるごとにいくばくかの謝礼も受け取ったようです。
 塾では孔子の教えを説いたり、民族思想が強く出る。植民地支配を進める日本にとって塾は邪魔。そこで、塾つぶしとして兄貴が狙われたのでしょう。
 兄貴に徴用命令が出されてからというものは、父さんの嘆きは日毎に増しました。「くやしい、くやしい」と言って、酒浸りになりました。私は見るに、見かねて決心しました。「私が代わりに行こう」。
 命令書は面長(村長)が出します。川村仲太郎という面長に会って頼みました。「私の兄さんは体が弱いし日本語を一言も話せない。私が代わりに行くから兄貴は行かせないでくれ」と。父さんも人を介して「次男を出すから長男だけは勘弁してくれ」と何度も頼みました。
 ようやく願いがかなって了解されました。兄貴の徴用命令書を面事務所に持って行き、返しました。そこで私は「日本に行ってから、絶対に変なことをやらない」といった誓約書を何枚も書かされました。それから面長が書いた行く先の紹介状を渡されました。その時警察は「お前の兄貴は許してやる」と言いました。
 当時日本鋼管は京城(現ソウル)のある京畿道方面から労働者を集めていたのですが、員数が不足したので南の方にも声をかけたのでしょう。私は紹介状と旅行証明書を持って大邸(テグ)から京城へ、九時間かけて行きました。
 黄金町二丁目(現在はソウル市乙市路二街)の京城職業紹介所の庭に集合した朝鮮人は百名。担当者が「朝鮮語を話すな」「大声を出すな」「列を乱すな」「連絡船に乗るときは大きな声で自分の名を名乗れ」などと注意しました。三、四人単位にまとめられ「いつも一緒に行動しろ、一人でもいなくなれば皆の責任だ」と言われました。京城から釜山(プサン)までは汽車に乗せられました。
 兄貴が日本に連行されたのはそれから一か月後のことです。

【「金と命の交換会社」】
 釜山までの汽車には他の乗客はいません。窓からは外が見えないようになっていました。便所に行くにもいちいち届けなくてはならず、駅のホームに出ることも許されませんでした。車中で連行担当の係員から「川崎の日本鋼管に行く」と聞きました。
 釜山から下関までは連絡船。乗船するとき私は、名簿を持っている憲兵から「かねしろけいしゃく」と呼ばれました。下関からは汽車で川崎に向かいました。
 第二報国寮という所に百人が入れられました。畳の部屋もあるし、布団もある。赤い花柄の派手な布団だったので「立派な布団ですね」と聞いたことを覚えています。近くの色街から調達した寝具だったらしい。心配していたよりいいじゃないか、それが最初の印象でした。十六歳の時でした。
 私が配属されたのは第二製鋼課で、クレーンの運転です。転炉は、すごい風圧で下からカーボンを通して空気を吹き出す。その摩擦で鉄の熱を上げる。そこへホイストクレーンで二・五トンの生石灰を真上から下ろす。下手をするとクレーンもろとも熱風を受ける。日本人はあまりやらない仕事でした。
 十五トンのクレーンの運転もしました。下には鉄の湯が煮えたぎっていて汗が出るので、塩を食べて上がります。炉が空気を吹き出すと、埃も舞う。マスクなどはありません。一昼夜働くと、鼻も耳も顔じゅう真っ黒になりました。
 一日十二時間、土曜日は十八時間働きました。一週間毎昼夜の二交替制でした。三か月たって二十五円か二十七円くらいもらったでしょうか。日本に来るときに、月八十円と聞いていたのでえらく違います。愛国貯金とか共済会費とかなんとかで天引きされたようです。
 食事は、麦と若干のお米とうどんくずが一緒になったものをお椀に入れて、具のない味噌汁をぶちこんで食べました。たまにたくわんが出ることもありましたが、それにしても座って食べるまでもないような粗末な食事でした。
 仕事が終わると一旦は寮に戻り、許可がなければ外出はできません。お腹が空くので頼んで食費稼ぎに働きに出かけました。何々組とかのトラックに乗って荷物運びです。白米の弁当が出たし、帰りには電車賃も出る。朝鮮人だからと、二~三円の安い日当でしたが、足しにはなりました。工場の前には朝鮮人部落があった。そこの食堂で白いご飯とホルモン焼きが出る。それがせめてもの栄養の補給源でした。
 ある日工場で、平炉の上のトタンを修理していた人が、酸化して腐ったトタンを踏み抜いて落ち、黄色い炎となって即死したのを目撃しました。月に約二十人が事故死していました。
 日本鋼管の歌に「義理も堅けりゃ人情も厚い、鉄で鍛えた心意気」といった歌詞があります。しかし私たちは替え歌で、「金と命の交換会社」と歌っていました。

【「立ちしょんべん」】
 日本鋼管の寮では四畳半に五人が押し込まれました。川崎はノミの多いところ。畳を上げるとぱたぱたとノミが飛ぶくらいです。夜もなかなか眠れません。
 手紙は検閲されました。手紙を出すときは日本語で書くように言われ、指導員の検印が必要です。家からきた手紙は指導員が開封した上で渡されました。軍隊帰りの指導員には「南京攻略に参加してチャンコロを何人殺した」などと脅すたちの悪いのもいました。
 若くて、他にやることもなかったので喧嘩はよくやったものです。工場現場には、吉田梅蔵という組長の、われわれとちょうど同じくらいの子どもが日本人試験工として働いていた。そいつが「何をー、この朝鮮人」とよく言うものだから、しゃくにさわって「お前と俺のこの小さないさかいは、やがては民族の血の闘争と変わり得ることを知らないのか」と言い返した。われながら、小さい子がよくもそんなことを言ったもんだと思います。
 そのことをおやじに告げ口したらしい。私は組長に呼びだされ、「現場がたいへんなことになるから、そんなこと言うな」と叱られました。知らず知らずのうちに私も民族としてのプライドを発揮するようになったのでしょう。
 たばこは週に十本くらい、酒は月に一合の配給がありました。酒は、毎月八日になると、天皇がアメリカに戦争を宣言した記念すべき日だからといって、くれました。あるとき、酒をもらいに行ってこいと言われ、行ったまではよかったが、帰りに一升全部飲んでわからなくなってしまった。組長から「おまえは相当のばかだ」と笑われました。
 たまの日曜日の午後に休める時間がもてました。以前から、浅草と靖国神社が頭にこびりついていて、一度は行ってみようと思っていました。浅草は講談の本によく出ていたし、靖国はみんなからもよく聞いたので、どんな所か関心があった。
 靖国神社には憲兵派遣所がありましたが、そのことを知らない私は、裏側で立ちしょんべんをやった。「とんでもないことをやったな」といって捕まえられました。不審な者だ、どこの者だと、油をしぼられた。これはまずいと思い、とっさに「私は天皇陛下のために死にます」と、えらいことを言ってしまった。すると「ひもじいだろう」と言って食事が出され、解放されました。
 後で分かったことですが、韓国の方までこの件で身元照会が入っていたとのこと、びっくりしました。
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:14 | 関連1. 第一次訴訟

日本の戦争責任を問う(下)

  日本鋼管への強制連行とストライキ
 私も日本鋼管に労働者として強制徴用され、五〇トンのクレーンを運転していました。当時一九四二・三年は、日本の戦局が最も苛烈な時期でありまして、日米戦争が始まって間もなく、日本の若い青年達は前線へ、前線へと、赤い紙切れ一枚で動員され、昼夜の区別なくたくさんの人が命を落としていた時代であります。
 ですから労働現場の方もそのあおりをくって、ほとんどの若い日本人の青年達は現場にはいませんでした。年寄の日本人と、高等学校の若い養成工の日本人の手で動かしていて、そこに我々が加わって、重工業の中で最もきつい仕事である製鉄の仕事をやっていました。
 が、彼らは我々の労働力をむさぼるだけでなく、人格をむさぼり、人権を踏みにじりました。会社は朝鮮人青少年達に対して非常にあくどい、悪意のこもったパンフレットを出しました。それには半島人条項として、いわゆる朝鮮出身、植民地出身の青年達はあまり仕事ができない。技術の修得がおそい。日本人の青年が二人でやることを五人で掛かってもできない。水をがぶがぶ飲む。水を飲むからおなかをこわす。出勤率が悪いとありました。
 ところがたまたまそれが私の目にとまり、それを回し読みして、こういう扱いを受けるならば、もう現場を放棄して仕事をしないほうが楽なんだ、家へ帰してくれ、我が国へ帰してくれと大食堂に集まり、二〇〇〇〇人もが一斉に、一人も抜けることなく整然と集まって、会社に申し入れをしました。
 製鉄は高炉も止まり、転炉も止まり、直結モーターも止まりました。ふつう三万五千トン級の軍艦の主砲を造っている所がありました。いわゆる大砲のくり抜きをやっておりました。それがとまってしまったので、その後軍艦は、それを積む予定だった軍艦はそれを積まずに出港して、マレーシア沖合で撃沈されたという「幸運」があったそうであります。
 ところが、これだけやっかいなものだったら国へ返してくれ、「我が国へ帰してくれ」という「我が国」がたたって、「植民地の人間が大きな口をきく」とか「思想的な言葉を吐く」ということになり、相当数が検挙され、私もその中の一人としてひどい拷問を受けました。今でも皆さんがお見かけのとおり、私の右の肩はちょっと左より下がっております。天井につるされて、五日間ぶっ通しで拷問を受けたからです。
 私たちは会社に抗議を申し入れたのが、いつの間にか独立運動に変わってしまった。独立運動がそんなに簡単にできるものじゃない、おっかぶせたわけなんです。独立運動者になるとですね。当時の状況で植民地の者が独立運動を口にすることはすなわち死を意味することなんです。
 実際に我々を毒殺しようとか、裁判なしに殺そうとしました。書類上だけでも当時検挙された首謀者とされた十五人のうち、二人はいまだに行方がわかりません。だが実際の行方不明は二十人をはるかに超えています。その後うわさに聞くところによれば、殺されて海に放り込まれたとか、誰もみかけた人はありません。風の便りに殺されたということは聞いております。
 どうして私は生き延びられたかといいますと、同僚のおかげです。じゃあこのストライキを解散するからということで解放されたんです。

   対企業裁判に立つ
 そして五〇年の節目を迎えた一九九二年。戦後問題をなんとかして表に出して、きれいに謝罪を受けるなりけりをつけた方がいいじゃないのか。そういう趣旨で、私共は企業相手に、強制連行に対する企業の責任を問うて、東京地裁に日本で初の企業相手の訴訟を出しました。それがNKKいわゆる金と命の交換会社、日本鋼管のことなのです。
 最初は平成の初めか昭和の終わるころなんで、よくもあれだけのことをしておいて安らかに死んでくれるなと思いました。そして日本の国会図書館に行きますとその資料を見つけたので、その晩を明かして訴状と言えるほどのものでもないし、訴状らしきものを書いて、東京地裁へ出しました。
 そうしたらとてもきょとんとしたような顔をして、まあ一応訴状と名の付くものは、間違っていても間違いとして、受け付けなければならないということで受理されました。そして、それが伝わって、東京のある弁護士さんがこれはたいへんだ、この戦後問題はだれかが壁を打ち破らなければならないとは考えていたが、お前さんがやった以上はこの裁判は勝たなければならないということで、弁護士さんが九人ほど集まって、文字通り手弁当で助けていただくことになりました。
 一審の方では「暴行は認める。だが損害賠償の方は時効と免責条項では今請求してもどうにもならない」というような判決が下りました。そして東京高裁で勝利和解をしました。

   厳罰に値する不二越の戦争責任
 その翌月になってこの不二越裁判も一緒に東京地裁へそれを提訴しましたが、不二越はまだ富山に健在であるということなので、訴訟の技術上これを富山に移しました。
 訴訟を出す前に私は九二年六月二三日、富山へ一人で行きました。総務の中田という人に会って、李鐘淑さんが持っていた当時の社内貯金の証明書の実物を示して、未払賃金を払ってくれと言ったんです。しかし「なにしろ、昔のことでね、私の生まれる前のことでしてね」としらを切りました。
 そのお金はどうしたのかと言ったら、「供託の方でしたか。なんだかわかりません」とあいまいな言葉をにおわせたので、とうとうごうを煮やしてその年の九月三〇日、提訴に踏み切りました。不二越は自分の月給をもらうために訴訟を起こしても、支払おうとしない。そういう会社のカラーなんですかね。
 私は先日不二越のことを研究しました。彼らはいわゆる戦犯企業であると私は見なしております。
 戦争を遂行するためには、兵器、その他あらゆる物資が必要であります。軍隊は素手では戦争ができない。その血に滲んだ手に、鉄砲を持たせたのが財閥であります。ですから日本の財閥は、決してアジア侵略の責任から免れることはできません。その一つが不二越であります!
 かれらは、魚雷を造ったという記録もあります。あらゆる兵器を造りました。海軍省や陸軍省から「これだけのものを出せ」といわれ、人手が足りないといって、朝鮮から国民学校の生徒であった少女たちを、狩り出してきたのが不二越の強制連行の実態であります。
 裁判で明るみに出ましたが、不二越の女子挺身隊の女の子たちを、夜な夜な軍人たちが連れ出して、一体何をしたのか!昼間は労働力を貪り、夜はその肉体を貪った!不二越は厳罰を免れない。それをよくもわれわれの追及に対して、知らぬ存ぜぬとは。かれらの鉄仮面の仕種に大きな怒りを感じるのであります。少女たちを「女子勤労挺身隊」と呼びつつ、夜は従軍慰安婦に対する以上のあくどいことをし、軍の機嫌をとり、莫大な金儲けをしたのが富山不二越であります。
 この不二越が、五十年経って、当時を偲びながら訪れた、何人かの女性工員たちを門前払いしました。その門前払いの意図はもう判っています。もし彼女たちを近づければ旧悪がばれるからです。
 不二越は、「NACHI」という名で商品のトレードマークを作っております。「NACHI」の由来は、大阪博覧会の時、天皇にこの品物はよくできているというお褒めの言葉をいただいたことが光栄だということで、当時の天皇のお召し艦――「那智」から名を取って「NACHI」なんですね。
 今でもそれを使っておりますということは、軍国主義のその流れをくんで、「NACHI」という天皇の軍艦の名前で、社会へ商品を売り出しているということは、昔の栄華をもういっぺん夢見ようとする気持ちがその心底にあるのではないかと、私はそう思っております。ですから「NACHI」に対して、私は非常に大きな反感をもっています。
 富山は不二越の城下町といっていいほど、不二越の采配が、幅がきく町なんです。その地において、心ある人々によって支えられて、今日こんにちまで私たちはこの訴訟をやってきました。

   不二越は強制連行の責任を取れ
 もともと、私は不二越へ何回も訴訟以前に話をしよう、話して決めよう。それを何回もしましたが、彼らは元従業員に対して、自宅待機を命じたその元従業員に対して、門前払いをしました。こういうことは日本の企業の歴史上、その例を見ないと思います。それほど過酷な、差別の激しい企業が、不二越だと思います。
 彼女らはここにいますが、爆撃がどんどん激しくなると、朝鮮半島へ分工場を作るという理由でもって、夜中にたたき起こして木造船に乗せて、日本海を渡り海の向こうへおっぽり出しました。
 もし人情というかけらでもあれば、彼らは帰す時に社内貯金、今まで貯めた預金なる月給を渡すべきなんです。それを社内貯金という理由で全部ふんだくりました。手帳にそれを書いて渡しました。家に帰って一ヶ月したらお前達は朝鮮の工場で働かせるからという理由でしたが、そのまま解放――終戦になりました。
 その後彼らは、ただの一回も自宅待機の中止を命じたことはありません。私は不二越に言いました。彼らは今でも不二越の社員であると。自宅待機の解除はされていないんです。
 崔福年さんは、当時十三才の子供でみかん箱に乗って旋盤作業をしました。それが不幸にも指を切られました。人差し指をですね。指を切られたその日から、彼女の人生は変わりました。
 今も昔もそうだと思いますけれども、指を切られた少女の結婚相手というものがそう簡単に見つかるわけにはいきません。とうとう結婚相手が見つからなくて、二十才も年上の人に、こどもを残すための道具立てとして結婚しました。悲惨な生活はそこから始まりました。
 もし当時不二越が、野戦病院式の治療をしないで、丁寧に治療をしたら指を切らずに済んだかもしれません。そういう人たちに対して不二越は門前払いをしました。果たしてこれが、日本人の人情であり良心であり得るでしょうか。
 戦犯企業だからこそこういうことをやりうると、私はそう思っています。彼らも人の子であり、我々もこの地球上に生を有する者である。植民地の国の人間だからどんな扱いをしてもいいという、そういうことは絶対にできないと思います。
 人は人であり、人の上に人なし、人の下に人なし。そういう例えもありますように、この不二越の悪辣さは、やがて正義の峻厳なる審判を受けるものと思います。
 日本国民の良心ある皆様が、一人一人輪を作って、この問題に取りかかってくれれば、必ず勝利の日があるものと、私は確信してやみません。

   再侵略への道を歩む日本
 甘い汁を吸って、味をしめた経験のある者は、「夢をもう一度」とあらゆる角度から植民地化の夢を見ているのかもしれません。ですから、今世界のどこかで戦争が起きれば、戦争物資を入れることができるから、ボロ儲けすることができると、日本はひたすら、世界のどこかで戦争が起こることを願いつつあると私は、そう思っています。
 日本の政府当局者なるものは非常に戦争好き、領土拡大主義なんです。独島は自分のものだと言っています。しかし大昔から我が国――大韓民国の領土として、日本の国会の地図にも、大韓民国の島、独島と書いてあるくらいなんです。その他にも、いろいろな資料があります。
 今日本は、アジア各国を植民地化してあまりある軍備をしています。日本の軍事力は世界のどこに出しても遜色のない、最新鋭の戦艦と最先端の装備を備えた戦闘機が山と積まれています。これは、日本国民を外敵から守るためではありません。日本にはあらゆる装備とあらゆる訓練が揃いすぎている!
 こうした不穏な日本の軍備の状況は、日本の皆さんはあまり気に留めていませんけれども、彼らに虐げられた民族と国家には、非常に大きな脅威となっております。
 日本は戦後五〇年間ひたすら経済発展に専念してきました。エコノミック・アニマルと言われるほど、アジア各国から絞り上げました。絞りとったお金があると今度はまた他の欲が出てきます。
 湾岸戦争で日本はお金を出したけれども人的貢献ができず、アメリカや各国からけなされました。円だけではだめだ、今度は軍事力が欲しい。そこで出てきたのが国連の常任理事国入りです。そうすれば世界のどこへでも、日本の軍隊を派兵できるようになる。そして弱い国があればそこを侵略することもできる。だから靖国神社への公式参拝やあらゆる暴言で、侵略戦争を正当化しているのです。
 我が国は、許すことはできますけれども、決して忘れることをしない民族であります。決して忘れません!これを知らない日本の政治家は、「日本人と似ているから、こうして押さえつければ黙り込むだろう」と思っている。“無言の抵抗”ということを彼らは知らない。非常に不幸なことであります。

   戦争責任に謝罪し補償せよ
 被害者一世が生きているうちに、謝罪し、補償し、未払賃金を出せ!というんです。我々が死んでしまえば、彼らは誰に向かって謝罪し、未払賃金を支払いますでしょうか。そのときには、もう我々はこの世には存在しません。それを私は率直に催促してるのであります。そういう過ちのないように。
 皆様今ご覧のとおり、彼女らは強制連行をお話しすると、胸が詰まるんですね。あまりの不二越の悪辣さに腹を立てて、百年闘争を宣言しました。もう五十五・六年たっています。百年先には私はこの世にはいないでしょうけれども、必ず、この不二越には目にものを見せる。その行いの過ちをただす。彼らは、その過ちのを治さない限り、彼らは永遠に歴史の前の前科者として、軍需産業、いわゆる戦犯企業として、名を連ねることは間違いありません!
 不二越訴訟。名は簡単。二人の女性と一人の男性が未払い賃金の請求、そして、指を切られた償いとして、いささかの金額を請求する、その訴訟でありますが、その意義は重大であります。これは、本当の意味での、隣同士のつき合いになるのか、ならないのか。その基礎にもなるし、不二越が栄えるか滅びるか、その境目にあると私は思っています。このような不道徳の、企業倫理の悪い企業がいつまでも栄えるとは、私は思っていません!
 日本の法律で、日本の国内で、日本人の手によって裁判が行われているということは、非常に私共に不利であることは重々わかっています。が、正義がある限り、皆さんのご支援がある限り、彼らは決してこの裁判をおろそかにはできないと思います。
 日本に来ること、この裁判で海を越えてですね。鉛のような心を抱いて日本に来ること、私五九回目でございます。原告の皆さんも、十数回に及んでいます。なけなしのですね、ここへ一回来るのにどれだけの苦しみを味わうか。彼女らにとっては非常に大きな負担でもあります。生活の糧になる日雇いにも出られないというような悲惨な実状も目の前に迫っています。
 こうした彼女ら元従業員に対して少しでも心あるならば、門前払いはできないと思います。
 強制連行一二〇万。死亡者四〇万。二〇世紀の非常に大きな悲劇であります。しかし日本製府はいまだにうんともすんとも言っていません。強制連行、強制徴用者にたいして、同じ職場で同じ日に同じ戦死をしても、植民地出身の人たちにはビタ一文と出していません。これが日本の厚生省のやり方です。これでいいでしょうか。
 まして従軍慰安婦問題では、乙女盛りの一八、九の娘たちをごまかしてトラックに乗せ、前線へ前線へと何万と送り込んで、列をなして強姦したのは皇軍という名のもとの日本の軍隊であります。その後裔たちが今、日本の政治をやっています。恐らく当人たち、もしくは今若手の政治家の父たちは、従軍慰安婦を抱いた経験が大いにあると思います。
 それを政府の責任にしないで、国民基金という名のもとに、国民から寄付金を、はした金を募ってですね、お金で済むことならこれでいいでしょうと、銭の威力をきかせようとしているんです。それでは通らないと思います。彼女らの憤念と恨みと恨(ハン)。それは金銭の問題では解決しない。
 ましてその昔、東京大震災の時、六七六二人、竹ヤリとこん棒で虐殺しました。それは日本の官憲の手ではなくて、日本の市民の手によってそれが行われました。
 「朝鮮人が井戸に毒を入れるから、朝鮮人を殺せ」と。官憲の保護のもとに監禁しておいて、裏口から市民たちに五人、十人と束にして渡したんです。それを土手の上に連れて行って、突き刺して殺した。
 その昔、豊臣秀吉はいわゆる朝鮮出兵ということをして、朝鮮の兵士の鼻を削いで祀って威張っているんです。今、京都の一番大きな堂の中に、鼻塚、耳塚というのが現在もあるんです。それが日本の歴史です。
 私共はいまだに一回も外国を侵犯したことのない国の国民です。夢にでもですね外国を侵犯した事実のない平和の国。白衣民族。その白い着物を重んじる白衣民族をなぜ日本はこれほどまでに、七百年間、何十回も、何百回も侵犯するのか。
 よくよく日本の政情が危うくなると、人気が落ちると我が国相手にいちゃもんをつける。本当の意味での両国民のつき合い、腹を割ってのつき合いはこれからだと思います。

   日本全国で戦争責任追及の闘いを
 私どもは対不二越百年訴訟を宣言しました。私どもはこの訴訟をやり抜きます。そして世界に訴えます。
 戦前の補償を戦後になって求める。われわれにとっては、大きな冒険でもあります。海を渡って、山を越えて飛行機に乗ってここまで飛んできています。いくらかもっていた財産も全額を使い果たしました。原告たちはこの裁判に出席するために、相当の金額を三ヶ月も四ヶ月もかかって、手に血を滲ませつつ貯めています。これは、「戦後の被害」でもあります。「戦前の被害」と「戦後の被害」これを知らない日本の政府、日本の企業。何を言われても厳と聞き入れないこういう集団がある限り、われわれは永遠に友達にはなれないと思っています。
  その中で、こういう支援の集まりが日本の津々浦々に広がっていくということが、私の最も念願していることであり、また本望でもあります。私の本心を言えば、日本の各裁判所に訴訟を持ち込んで、日本政府のお金をうんと食い潰したい。日本全国に強制連行の跡はいくらでもありますから。
 今からでも遅くない。日本政府、心せよ!さもなくば亡びよ!

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:11 | 関連1. 第一次訴訟

日本の戦争責任を問う(上)

日本の戦争責任を問う
対不二越百年訴訟団 団長 金景錫

   第二の独立運動として
 不二越訴訟とはとかくなんぞやという疑問にぶつかります。特に終戦後の出生の方にとっては「私の生まれる前のことなので、今更なんで不二越のことをほじくり出すのか」という疑問を感じる方もあります。
 戦後五〇年、我々はこの問題にとりくんできました。私もこの問題に対して過去一〇年間、資料探しやもろもろの準備のために時を費やしてきました。
 当時の日本の政情は軍隊が頭を持ち上げ、軍事政権に移ったのが東条内閣であります。この軍事政権は日本の国民、日本のあらゆる経済・政治体制を根本から覆したのであります。のみならず、当時植民地だったわが国もその巻き添えをくって、非常に莫大な被害を受けました。
 天皇制の日本の国家体制の下、ありとあらゆる民衆を縛り付ける法律があった。これが当時朝鮮半島に施行され、命令一本で数十万、数百万を超える若き青年たちが強制連行されたのであります。国家総動員令。この怪物によって、当時朝鮮半島の物資、男女を問わず、老若のいかんを問わず、この戦争に協力せよと強要されました。
 筆舌に尽くし難い悪行を重ねた日本帝国主義者たちの姿は、今日心ある人々によって明らかにされつつあります。
 一八、九歳の少女たちの胸を軍歌で踏みにじり、列をなして蹂躙したのはどこの誰でしょうか!「お前たちは人間じゃない。動物のように扱うから苦情を言うな!」とわれわれは戦争の第一線に送り込まれたのです。
 被害を受けたわれわれは、今声を大にして彼らに迫っています。
 戦争加害国日本の国民は十七、八にも及ぶ援護法でもってカバーされています。しかしそこには、奇怪にも国籍条項なるものがあって、「日本の国民にあらざる者は、その恩恵は受け難い」と。原爆でやられた人も、朝鮮・韓国人なるがゆえに見捨てられている。それが戦後五〇年を経て、今なお続いている現状であります。
 日本の戦争責任のうちで最も重い責任の一つは、彼らの意のままに、わが国の若き青年たちを勝手に狩り出したことです。人命を無視したこの行為は、必ずや彼らの頭上に舞い戻るものと私は確信しております。わが国の青年たちは、当時確かに「日本国民として」死んでいるはずなんです。それをいざ戦争が終わると、「日本は知らんよ。それはお前たちの勝手だ」と、こういう理不尽なことを平気でやるのが日本政府のやり方です。アジア侵略の責任は一切取らない!
 日本政府は朝鮮・韓国人に対して根強い偏見をもっています。その偏見が今もなお「在日」のみなさんの頭の上に降りかかり、あらゆる不利益を被っているのであります。税金は出させるけれども、参政権は認めない! 世界に類のないことを日本政府はやっています。あつかましいにもほどがある!
 戦後問題の解決なくして未来の友誼はありません。
 一九四五年八月一五日。我らの祖先の闘いのおかげで我が国は解放され、独立することができました。しかし戦争責任の問題の解決がない限り本当の意味での独立はない。私はそう思っています。当時私は幼少のため独立運動に直接参加できませんでしたが、これは第二の独立運動だ。ある意味においては、私もその一員としての闘いをしてきました。
 いつまで続くか。いつまでも続く訳ではありません。必ずきりがあります。そのきりがもう見えてきています。この歴史の転換点を得るために我々は今闘っています。決してひるまない。決して怖けない。これが私ども原告団の運動でありますし、百年訴訟宣言の根本的な精神でもあります。

   日本の侵略戦争に動員させられた朝鮮民族
戦争責任、アジア侵略の戦争責任は、もともと一九三一年「満州」の軍閥-張作霖との柳条湖事件からです。それを盾にして、世界で最強の関東軍が出動し、それ以来中国本土、それが昂じて太平洋戦争へと侵略を拡大した。
 なぜ日本が戦争をしなければならなかったのか。財閥が後ろを支えたのであります。軍閥と財閥の馴れ合いで起こったこの戦争が、日本国民を不幸にし、隣の国まで不幸にし、アジア各国の民族にまで被害を及ばせたことに対し、日本政府は責任を取るべきであります。
 従軍慰安婦の問題にしても、軍が動員して前線に送り出した事実を政府が認めながらも、「国民基金」なるものを作り出しました。なぜ政府が責任を取らないのか! 今の日本の政治家の考えていることは実に図りかねない。
 日本では、いわゆる「十五年戦争」における戦争責任を、形式的にごく一部の人に取らせていますが、最も注目すべきことは、その実は「十五年戦争」の責任をわが国の仲間が取らされているのであります! その一例が、捕虜虐待の罪だというので、一二六人が絞首刑にされた。戦争が激烈になるに従って、やがて捕虜虐待の罪が必ず問われるだろうと思った日本の軍閥は、捕虜収容の総責任をわが国のホン中将に任せました。狡猾なる仕種が窺えるその一例であります。
 わが国の青年たちによって、わが国の少女たちによって、「大東亜戦争」なるものの後始末をさせられた! 人命を無視し、自分の国の出来事をよその国の人たちによって償わせたということは、必ずこれを歴史に問わなければならない。私はそう思っています。

   日本の植民地支配-皇民化政策
 わが国は日帝の植民地時代に、先祖代々から伝わった自分の姓-名字を名乗ることができませんでした。私は今は金ですが、当時は金城(かねしろ)と強制的に名乗らされました。それに反抗するものは非国民だと。いわゆる創氏改名令ですね。その上っ張りだけは、非常にきれいな言いぐさなんです。いわゆる皇民化政策。内鮮一体。
 朝鮮民衆はそれに反抗しました。林(イム)とか、南(ナム)姓の人たちは、創氏改名を断固として拒否しました。いいように呼べばいいじゃないかと。林(イム)氏は「はやし」ととってもいいじゃないか。南(ナム)氏というのは「みなみ」といってもいいじゃないか。当時朝鮮総督府の南一郎の例えをとって、陸軍大将の偉い方なんですが。
 このような実態のもとに、あらゆるものが戦争の動員されました。もしこれに反抗すると「天皇に反抗する」と言われました。当時は天皇の名が出ると、皆直立不動の姿勢をとらされました。六十歳以上の方はそれが記憶にあると思うんですけれども、言葉に窮するとよく日本の官吏は天皇の名を通して、それを抑圧しました。天皇は万病封じの薬みたいなものでした。天皇の名が出ると、それに一言も反抗することができませんでした。それが当時の朝鮮の生活でした。
 朝鮮民衆のシンボルでありますところの、白衣-白い着物が着られませんでした。白い着物を着て町の中に出ると、日本の官憲が墨を溶いた水をぶっかけます。また、先祖ゆずりの髪を結って外に出ると、ハサミでもってそのちょんまげを切ってしまいます。古語にいわく、身体は父母からゆずるもの、これを傷つけるな、という論語にもありますが、それでもって、その悔しさで自殺した人も数多くいます。
 朝鮮総督府ができると、植民地政策の最も重要な政策として神社を建てました。ソウルのナムサンというところには、戦後になって伊藤博文をハルビンの駅頭で射殺した安重根様の碑が建てられましたが、そのちょっと上のところに、当時朝鮮神宮というものが建てられました。そこを根拠にして朝鮮半島津々浦々に、最もその地において有名な場所、由緒ゆかりのある地に、一郡に一神社が建てられました。そこで一日と十五日、学生たちを必ずそこにお参りさせる、神社参拝です。指導者階級の朝鮮人には、そこを参拝するように強要されました。参拝拒否は罪になります。宗教の自由なんてあったものじゃない。キリスト教の人たちは捕らえられて刑務所に入れられ、拷問を受けて死にました。神道は栄えました。
 小学校、中学校あらゆる学校に神社が造られました。そこにもやっぱり天照大神。いろいろな神話を歴史科の中で日本人教師によって教育されました。私は小学校のころ神武天皇以来百二十四代、今は百二十五代なんですけれども、全部天皇の名前を覚えさせられました。
 教育勅語を暗唱しないと学生たりえません。青年学校というものを作って軍人勅諭を覚え込ませる。最もひどいのが皇国臣民の誓詞。いわゆる「われら皇国臣民なり。忠誠をもって軍国に…」この三箇条になるものがありました。
 朝鮮の年取った老人たちを駅頭に立たせて、直立不動の姿勢で「皇国臣民」を唱えさせました。それをやらないと汽車の切符が買えないので、涙ながらにそれを唱える朝鮮民衆の姿をみなさん思い浮かべて下さい。私共は当時それを実際目の当たりに見て育ちました。この私が日本と日本人に対していい印象があるわけがありません。
 朝夕に皇居礼拝というものがありました。東京の皇居がある方に向かって、深く深く最敬礼しなければならない。このような仕草ですね。それを日本人の手によって私共は教え込まれました。
 天皇の名のもとにあらゆる制度・法律が施行され、そして運用されていったのであります。足に靴を合わせるのが常識です。ところが当時の日本の軍隊、日本の法律、日本の社会制度は、靴に足を合わせろというような状態でした。いくら大きい足をしていても、小さい靴が配られれば、その小さい靴に大きな足を履かなければならない。その足はいかに苦痛だったでしょうか。その例えが、朝鮮民衆の生活の一環だと思えば、決して間違いでありません。
いくら神道を教え込まれ、神社参拝をさせられても、神社参拝を拒否して、監獄に行って、刑務所に行った人は随分います。神社参拝、天照大神、天皇という存在は、植民地の人々にとっては恐怖の的でもあります。が、その中でも断固として、命を懸けて神社参拝を拒否した朝鮮の指導者たちに対して、私はいまだに敬意を払っております。

   日本の植民地支配-略奪
 朝鮮民衆はあらゆる農産物、あらゆる私有物、畑、山、全部取り上げられました。我が国古いしきたりは、土地の証文を持っていますと、それで登記が済んだものと同じような効き目をしました。しかし朝鮮総督府令が施行されて、いわゆる朝鮮土地改正例が公布され、何月何日までに申告しないものはすべて国有に帰するという法律を作りました。
 純真素朴な我が祖先たちは、自分の田畑の証文を持っていればそれは自分のものだと思い込んでいましたが、いつの間にか法律という名の下で、全部取り上げられました。申告するすべも知らない。申告しようとしても、非常に難しい申告の制度を出しておりまして、時効が過ぎたら政府のものになっている。それで朝鮮総督府のものになりました。
 こうした中で小作制度は非常に苛烈なものでした。七・三ですね。七を挙げて三を自分が取ると。それでは農作物の労賃もありません。それでもないよりはましかというので農作物を政府に上納したのであります。ところが戦争が始まってしまうと、いつの間にか百パーセントを政府に供出という名目のもとに全部渡せと。後は政府から配給する配給米を買え。そこで商売したのが、朝鮮総督府の悪辣な食料政策でありました。
 当時の朝鮮の食糧事情はどん底それ以下のものでありまして、もし農作物を一握りでもかくまったことが発見されると、戦時統制令違反ということで、すぐ懲役ということになります。むしろ外で飢えているより、刑務所に入ってご飯を食べて、麦飯ですけれども、三度も飯にありつける方がいいじゃないかと言う人たちもいました。
 当時お酒も全部配給制で、朝鮮に住んでいた日本人が握っていましたが、小さいこどもたちがそのお酒づくりの粕をもらってきて飢えをしのいだりもしました。そのためにこどもたちが酔って道を歩いているという、うそのような話も私たちは見てきました。それが当時の朝鮮の生活でした。
 また文化財にしても、あらゆる名のある文化財、世界の歴史に残るような朝鮮の美術品はほとんどが東京にあります。「日韓友好」とか、「韓日友好」とかいうものの、その裏ではいまだに我が国の古美術品を独り占めしている。朝鮮コレクションの中で一番いいものはほとんどが日本人が所有していることは、皆さんご存知のことと思います。

   日本の植民地支配-強制連行
 そして日米戦争が始まると、日本人の徴兵だけでは足りないというので、頑強な朝鮮の青年たちを引っ張り出すのに志願兵制度というものを作りました。志願兵制度といってもその実は強制なんです。それで、朝鮮軍二四部隊に入所をさせて、一年間みっちりとたたき上げて、いわゆる生半可な日本人に仕立て上げて、前線へ前線へと送り込まれました。その数二十万。いまだに買えって来ない人十万。
 戦争が段々苛烈になると、当時日本では障害者を除いてほとんどが軍隊へ行きました。その後釜に入れたのが、我々朝鮮出身の労働者であります。最初は日本の内務省が反対しました。あまりにも酷いことをしたので、日本国内に朝鮮人労働者を入れるといつ暴動が起こるかわからないというのが内務省の方針でした。ところが背に腹はかえられないというので、どんどん、どんどんと送り込ませました。その数百二十万。四十万は死亡、虐殺されて帰っていません。それは、日本の各種統計から割り出した数字でもあります。
 このようにやっておいて、日本という国は、いまだに一言も韓国人犠牲者、朝鮮の人に対して謝罪をしていません。遺憾だということだけは言っております。我々が希望するのは言葉の修飾をしないで、心底から何を悪さをしたのか、その悪さの実証を挙げて、すみませんでしたと一言いえばそれで済むんです。

   強制連行で殺された兄
 私の兄は村で漢字を教える支部長でしたが、徴用で一番最初に指名徴用されました。兄を狙った理由が、いわゆる反日思想を持ったその家族への見せしめでした。
 私の姓は金と申します。韓国において、朝鮮において、金氏というのは新羅の金、それから朝鮮李朝二〇七年間の李氏王下、李氏と金氏は由緒があるといわれております。新羅金氏の子孫で、父の話によりますと、新羅最後の王様の子孫だということで、家柄を非常に大切にしました。その継承者でもある、子孫でもある兄に日本の戸籍制度は適用し辛いということで、施行された戸籍制度に兄を抜いて応じました。兄だけはどうしても日本の国民にしたくない。それが発覚したのであります。
 それで、これはけしからんと兄に一番最初に徴用令状がきました。父は非常に嘆き悲しみ、私が替わりに徴用に応じるという形で行ったのが、川崎の日本鋼管株式会社川崎製鉄所であります。
 ところが後でわかったことなんですけれども、私が兄の身代わりとして発って一ヶ月後に、日本の官憲は私の兄を炭鉱に送り込みました。それは北海道の新夕張北海道炭鉱汽船株式会社というところです。
 後で私が夕張に何度か行って調べたことなんですけれども、ノルマとして石炭何トンを掘り出さなければ寝られない。たこ部屋同然の部屋に収容されて、握り飯ひとかけら。着る服もなくふんどし一本で仕事をさせられて、一年数か月の後に兄はそこで死にました。
 兄が死んだのが、一九四五年一一月四日であります。終戦後であります。なぜ兄は終戦後に死んだのか。頼る人もなく、終戦のどさくさで薬もなく、病院で犬死にしたも同然だという話を聞いたとたんに、私は大きなショックを受けました。
 この実態を明かさずにはおかないと。戦後問題に私が身を投じたのはそうしたことからなんです。
 それから帰りまして、北は小樽、夕張、札幌、南は沖縄、鹿児島。日本全国あらゆるところを探し歩き、遺骨を集めました。そして、兄の遺骨も探しに何回も行きましたけれども、とうとう探しきれずに、いまだに心の底に一抹の悔しみを覚えております。
 「必ず兄の遺骨を探し出して、立派な墓を作ってあげるように」との母の遺言を私はいまだに実現しておりません。後幾ばくもない命なんですけれども、命あるうちに必ず、兄の骨を探し出して、お墓を作って、金なにがしの家系であることを大きく書いて、子孫に伝えたい。これが私の願いであります。

 
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:09 | 関連1. 第一次訴訟

名古屋高裁金沢支部判決文-要旨

高裁判決文-要旨

平成八年(ネ)第一五八号強制連行労働者等に対する未払賃金等請求控訴事件
                      控訴人ら 李鐘淑 外二名
                      被控訴人 株式会社不二越

(判決理由要旨)

第一 控訴人らの賃金請求について

一 賃金請求権の発生
 昭和一九年、二〇年当時の控訴人らの被控訴人工場における就労期間中の賃金額についてはこれを具体的に特定するに足りる証拠はないが、被控訴人会社の同年代の社員と同程度の額の賃金請求権を有していたものと認められる。
二 弁済の抗弁について
 被控訴人会社が控訴人らの賃金を実際に控訴人らに対して支払ったことを裏付けるに足りる証拠はないから、被控訴人の弁済の抗弁は採用できない。
三 消滅時効の抗弁について
 控訴人らの本件賃金債権の消滅時効期間は、民法一七四条一号により、一年であると解される。そして、右債権の履行期の到来によって控訴人らは権利を行使することができるようになったのであるから、控訴人李及び控訴人崔の賃金債権については遅くとも昭和二〇年八月一日から、控訴人高の賃金債権については遅くとも昭和二〇年一二月一日から、消滅時効の進行を開始したものと解するのが相当である。もっとも、昭和二〇年八月一五日の第二次世界大戦の終戦により朝鮮は従前の日本の植民地支配を離れて独立し、その後、昭和四〇年に日韓基本条約とそれに伴う諸協定が締結されるまでは両国間に国交のない状態が続いていたという特殊な事情があるから、右の国交回復時をもって民法一六六条一項の「権利を行使することができる時」が到来したものと解しうる余地がある。しかし、右の昭和四〇年の国交回復時を本件賃金債権の消滅時効の起算点としたとしても、その時から、控訴人ら主張の賃金請求時である平成四年六月二三日あるいは本訴訟提起時である同年九月三〇日までに、既に二六年余も経過しているのであるから、控訴人らの本件賃金債権についてはいずれにしても消滅時効が完成している。
四 権利濫用の再抗弁について
 控訴人らは、本件において被控訴人が消滅時効を援用することは権利の濫用であって許されない旨主張するが、原判決の説示のとおり、被控訴人が控訴人らの権利の行使を妨げたような事情も認められないから、右主張は採用できない。
 もっとも、控訴人らが昭和二〇年に祖国に帰国した後の生活状況や戦時中日本の軍需工場に就労していたことについての祖国独立後の微妙な立場等を考慮すると、平成三年八月に日本国政府が日韓協定についての見解を改めたことを知り、これを契機として本訴提起に及んだ控訴人らをいわゆる権利の上に眠っていた者として非難することはできないが、消滅時効制度の趣旨は、権利の上に眠る者を保護しないことのみにあるのではなく、当該法律関係の早期確定の要請並びに一定の年月の経過によって証拠資料が散逸し、客観的事実関係の確定が困難になることをも配慮したものであるところ、本件においても年月の経過によって当時の客観的な資料(賃金台帳等)の滅失あるいは散逸が賃金の弁済消滅を主張する被控訴人の立証活動を制約していることも否定できないから、この点からしても、被控訴人が本訴において消滅時効を援用することが権利の濫用あるいは信義則に反するものとして許されないということはできない。
五 以上のとおりであるから、控訴人らの賃金請求は理由がない。

第二 国際人権法違反に基づく損害賠償請求並びに不法行為に基づく損害賠償請求及び謝罪広告の掲載請求について
 当裁判所も原判決の説示のとおり、控訴人らの右各請求はいずれも民法七二四条後段の除斥期間(不法行為の時から二〇年)の経過によって許されないものと判断する。
 除斥期間といえども絶対的なものではないが、控訴人らの除斥期間経過時の状況や昭和一九年、二〇年当時の被控訴人工場における就労状況に照らしても、除斥期間の規定の効果を否定するまでの特段の事情は認められない。

第三 債務不履行に基づく損害賠償請求について
 仮に控訴人らに右請求権が発生していたとしても、昭和二〇年に控訴人らが帰国し、被控訴人の実質的支配から離脱して右請求権行使が可能になった時、若しくは前記のとおり遅くとも日本と韓国の国交が回復した昭和四〇年から、一〇年の経過によって民法一六七条の消滅時効が完成している。
 被控訴人による時効の援用が権利の濫用にあたらないことについては、賃金債権の消滅時効援用に関して説示したところと同様である。
 したがって、控訴人らの債務不履行に基づく損害賠償請求も失当である。

第四 結論
 以上の検討によれば、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却すべきである。よって、右と結論において同旨の原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないから棄却することとする。

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:07 | 関連1. 第一次訴訟

地裁判決をうけて、原告団「100年訴訟宣言」

100年訴訟を宣言する
 今日私どもは、厳粛な気持ちで人類史上類例を見ない悪行を行った不二越に対して、韓民族の恨をこめて、正義の名において、100年無限闘争を宣言する。
 歴史上どこの国、如何なる民族においても十五、六才の少女を連行して強制労働に従事せしめ、いくばくもない賃金までも取り上げて私物化した企業を見たことがない。金額の多少という問題ではなく、ただ人間の道徳心の問題であり、企業の良心の問題である。彼らも人間であれば問題解決の道はいくでもある。何故、彼らはあまりにも明白な事実に顔を背けているのだろうか? 理由は簡単である。かって腐敗した儲け主義と民族差別が大東亜共栄圏・大政翼賛の仮面をかぶってほしいままにふるまった当時の面影が亡霊のごとく現れたのである。幼い少女たちの血で染まった労賃が企業の腹をふくらましているのである。人面獣心とはこれをもって言うのである。三才の幼子でも分かる自明のことに彼らは未だに顔を背けている。
 神は決して彼らが正義に対していつまでも顔を背けることを許さないだろう。彼らもいつかは人間の本心に帰ることがあるにちがいない。しかしその時には既に、謝罪する相手がこの世に存在しなくなっているかもしれない。彼らは永遠に歴史の前に前科者たることを免れないであろう。もし彼らが神の存在を否認しないとすれば、彼らが犯した罪に対して罰を免れえないであろう。ここにおいて我々は当然、かつまた正当なる権利行使の一環としてあらゆる方法を総動員して、100年訴訟を宣言する。
 過ぎし五十、年我々は茨の道と恨(ハン)の生活を歩んできた。そして、果てしない涙の歳月を過ごしてきた。これからの五十年! 我々の生命(いのち)がどこまで続くかわからないが、生命ある限り我々は闘う。そして、その意志は我々の子孫たちが綿々とこれを引き継ぐであろう。人間が人間に対してこれほどの悪徳行為をした以上、決して彼らに安らかな眠りはなかろう。彼らが反省し謝罪するその日まで、我々の闘いは続く。訴訟資料に不足はない。

一九九六年七月二十四日

對不二越100年訴訟団
団長 金景錫  原告 高徳煥 李鐘淑 崔福年
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:06 | 関連1. 第一次訴訟

富山地方裁判所の判決文-要旨

地裁判決文-要旨

主文
 一 原告らの請求をいずれも棄却する。
 二 訴訟費用は、原告らの負担とする。

一 原告らが被告工場で働くようになってから帰国するまでの経緯

1 原告李尾及び原告崔は、被告による女子勤労挺身隊員の募集に応募し、原告高は、徴用令書により、昭和一八年あるいは一九年から、それぞれ富山市内の被告工場で働くことになった。
2 原告らは研磨、旋盤などの作業に従事し、勤務は昼夜二交替制で、日勤と夜勤は、一週間交替で行われた。自由な外出は認められなかった。原告らは被告の寄宿舎で生活をしたが、狭い部屋で多くの人と寝泊まりし、暖房設備などはなかった。原告崔及び原告李は、女子勤労挺身隊員に応募する際、被告の従業員から、上級学校に通え、お花やタイプなどが習えると言われたが、これらのことは実行されなかった。また、原告崔は、昭和一九年秋頃、旋盤作業中に右手の人差指を負傷し、その一部を切断するに至った。
3 原告らは、被告工場で働いている間、一度も賃金を受け取ったことはなかった。
4 被告が朝鮮半島の沙里院に工場を建設することになったので、原告崔及び原告李は、昭和二〇年七月頃、被告従業員に付き添われて、沙里院に連れて行かれた。被告は、原告李及び原告崔に対し、工場が建設されるまでは自宅に待機するよう命じたが、その後、今日まで何らの連絡もしていない。
 原告高は、終戦後も、しばらくは被告工場で待機し、被告の指示に従って労働していた。そして、昭和二〇年一〇月下旬又は一一月頃、被告の指示により、博多まで行き帰国した。

二 原告らの賃金請求は認められるか

1(原告らと被告との法律関係)
(一) 原告李及び原告崔は、被告の募集に応じて被告工場で稼働したものであり、両者の法律関係は、雇用契約と認められる。被告は、右募集の際、「優遇する」として賃金を支払うことを約束した。この「優遇する」の意味は、被告における一般の従業員と同等の賃金を支払うことを約したものと解釈するほかない。
(二) 原告高は、徴用令書に基づき被告工場で稼働するようになったものであるから、被告との間に雇用契約が成立したと理解することはできない。しかし、被告は、原告高に対して賃金を支払うことを約しており、原告高は、これに対応して労働力を供給したのであるから、両者間には、雇用契約の規定を類推適用するのが相当である。被告は、徴用に際して、原告高に対し「日本人と同じように待遇する」旨約束したものであり、その意味は、被告における一般従業員と同等の賃金を支払うことを約したものと解釈するのが相当である。
2(弁済及び供託の主張について)
 被告は、原告らに対して、右賃金を支払っていたとは認められず、また、右賃金を供託した事実も認められない。
3(消滅時効)
 右賃金債権の履行期は、当時の工場法施行令の規定及び被告における賃金制度などに鑑み毎月末日と認められ、その結果同債権の時効期間は一年である(民法一七四条一号)。
 ところで、消滅時効が進行を開始するには、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、又は、債権者の個人的事情を越えた客観的、一般的状況に照らして、その権利行使が現実に期待できるものであることが必要であると解するのが相当である。
 本件の場合、原告らの被告工場における就労期間中は、原告らと被告との関係や当時の日韓関係、戦局の状況に照らし、右賃金債権を行使することが現実に期待できる状況ではなかった。また終戦後は、日韓の国交断絶や、昭和四〇年に締結された日韓協定及び右協定二条の実施に伴う措置法並びにこれに関する日本国政府見解の下で、原告らが賃金債権を行使することは現実に期待できなかった。賃金債権の行使が現実に期待可能となったのは、平成三年八月二七日、日韓協定は、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない旨日本政府が公式表明した時以降である。したがって、右賃金債権の消滅時効の起算点は平成三年八月二八日であり、本件訴訟はそれより一年以上経過した後に提起されたもので、右賃金債権は時効により消滅した。
4(権利濫用について)
 時効の援用が権利濫用といえるためには、時効の援用が社会的相当性の見地から許容された限界を逸脱した場合であることが必要であるが、原告らは、時効進行開始後において被告に社会的相当性を逸脱した行為があったことについては、なんら主張、立証していないから、権利濫用の主張は失当である。

三 原告らの損害賠償請求及び謝罪広告の掲載請求は認められるか

1 不法行為に基づく損害賠償請求権には除斥期間の規定(民法七二四条後段)の適用があり、国際人権法違反に基づく損害賠償請求権も、その本質は不法行為に基づく請求権と同一であるから、同様に除斥期間の規定の適用がある。そして、除斥期間は、被害者の認識如何を問わず、一定の時の経過により当然に法律関係を確定させるものであるから(最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二〇九頁参照)、加害行為があり、損害が発生し、損害賠償請求権が成立した以上、除斥期間は、その後の事情の如何を問わず進行するというべきである。よって、前記各請求権が成立していたとしても、原告李及び原告崔については、帰国後から二〇年経過後の遅くとも昭和四〇年七月末までに、原告高については同じく同年一一月末までに消滅した。
 また、同様に、謝罪広告掲載請求権も、除斥期間の経過により消滅した。
2 国際人権法違反に基づく損害賠償請求権には除斥期間の適用はないとする原告らの主張は、採用できない。
3 除斥期間には、その性質上、権利濫用の法理を適用する余地はない(前掲最判参照)。

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:04 | 関連1. 第一次訴訟

高徳煥さんの陳述書

甲第三号証

 一九四〇年代、韓国の若い人達は、日本の支配下で大変苦しい状態にありました。私は日本の大学へ行こうと思っていましたが、戦争でだめになってしまいました。その頃私は咸鏡北道の城津府旭町四三一番地に住んでいましたが、地元の若い人達は、満州に行き、あるいは敵地に送られ地元には、若い男は殆どいませんでした。一九四四年一〇月ころ、私は病院の庶務課に勤務していました。シライシシンゾウという東京大学出の人が院長でした。その時徴用令状が来て不二越の福田中隊に配属となり、百名ほどの教師や銀行員の人達と一緒に連行されました。城津の市役所から出た指名徴用です。マツキミノルという城津の警察署長から訓示を受け、軍需工場に送ると言われました。指名徴用の令状には○○へ○月○日、徴用は二年、「不二越」と書いてありました。協和会手帳は持たされませんでした。城津まで来た中隊長に引率されて、釜山へ行き、そこで服を消毒され、関釜連絡船で下関へ、それから汽車で富山へ来ました。
 福田中隊で一ヶ月厳しい訓練を受けました。福田は三〇才くらいでした。訓練所には所長が別にいました。高等文官でした。背が低くて、タバコを一日に五箱も吸いました。訓練期間中は軍事教練もありました。実際武器は持ちませんでしたが、戦地へ行った時の訓話がありました。私たちの胸には徴用マークがありましたが、これは差別マークのようなものでした。
 訓練の後、最初は旋盤作業やベアリングの検査などをしましたが、四五年になると、機械設備の疎開の仕事などの雑役に従事させられ、トラックの運転助手などもやらされました。仕事は八時から始まりましたが、そこには日本の大学生、日本の女子挺身隊、朝鮮の女子挺身隊、技術工、朝鮮の徴用工など五種類の人達がいて、旋盤の作業をしていました。女子学生たちはそれぞれの班の先生に連れられてきて、一日中監視され、帰る時も列を作って帰りました。それが勉強の代わりだったようです。働く時はお互いに言葉は交わしませんでした。朝鮮からの女子挺身隊の人達ともすれ違いましたが、話はできませんでした。労働時間は午前八時から午後六時くらいでしたが、戦争が押しつまってくると、二時間ぐらい増えて、休憩は食事の時間を除いて殆どありませんでした。
 食料がなくなってくると朝食ぬきのこともありました。昼食には三角のパンがよくでました。日本人は外へ出ておかゆのようなものを食べていまいたが、私たちは出られませんでした。休日もなく、日曜日も仕事をしました。
 寄宿舎には廊下の両側に部屋があり、一部屋に八人から十人くらい、頭をつけ合わせて寝ました。寝る前には廊下で分隊長が点呼をかけました。黙って外出すると、中隊長の前で殴られました。大変厳格で、個人的な行動は不可能でした。
 賃金は出発する時日本の本職工と同じと言っていましたが、一度も支給されたことがありませんでした。所長も労務係も賃金については頓着しませんでした。私達も徴用で死ぬ覚悟で来ていたので金には執着しませんでした。実際要求できるような空気ではなかったし、でも、私の場合は、すでに結婚していたので、金はやはり欲しかった。二一才までは応召でBC級戦犯の死刑もあり得ましたが、その点二二才で徴用で不二越へ来ていて、考えようによっては幸いだったとも言えます。日本人の給料にも関心がありませんでした。徴用というのは、そもそも自分で自分が管理できなかったのです。手帳なども記憶にありません。
 富山大空襲の時、工場内の放送で、下関方面からB29が新潟方面に向かっていると言っていたのを覚えています。空襲の時はみんなで田んぼの方に逃げました。爆撃後トラックで外へ出たら、神通川の川原に死体が並んでいました。戦災直後は憲兵が市内を管理していたようです。玉音放送を聞いた後、工場は一時作業が停止されましたが、その後も仕事はしました。戦後、市内を見て歩きましたが、一月以上煙が上がっていました。戦争後は挺身隊の姿はありませんでした。
 一〇月下旬か一一月に、歩いたり乗り物に乗ったりして大阪経由で博多へ行きました。途中広島の惨状も見ました。全部焼け野原でした。博多では一日か二日待って船に乗せられました。五〇〇〇屯くらいの木造船でした。関釜連絡船が逆さになって沈んでいるのが見えました。報復行為があるかと思って身を隠していた分隊長がちょっと現われて、すぐに消えました。帰る時、同じ船には二~三〇〇人乗りました。自分たちが先発隊で、後に残った人もいました。まれには、逃亡者もいました。分隊長のところへ、朝鮮人の班長が賃金についてかけ合いに行きましたがだめでした。釜山に着いて初めて三八度線が出来たことを知って驚きました。帰国後、運輸会社に一年勤め、キリスト教の信仰を持っていたので、三八度線を越えて南下し、後から妻も来ました。
 右のとおり間違いありません。

    一九九三年五月一七日
高徳煥

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:03 | 関連1. 第一次訴訟

崔福年さんの陳述書

甲第二号証

 一九四三年五月、栄華国民学校の六年生になったばかりの頃、二人の日本人が来て「不二越に来ればお金も沢山貰えるし、卒業証書あげるし、中学、高校にもやらせてやる」と言いました。二人は不二越の人で、そのうちの一人は五〇代の老人でした。不二越まで連れて来て、その後も一人は工場で見かけたから、不二越の人に違いありません。そのとき、学校の先生は何も言いませんでした。だから人が集らなくて、不二越の人は学校へ来て先生を苦しめたようです。家は三人家族でしたが、生活が苦しく、勉強もしたかったので、私は不二越へ行くことを決意しました。親は反対でした。支度金などはもちろん一銭もありませんでした。帽子とか服は受け取りましたが、ですから物理的に強制されたわけではありませんが、金もくれないし、勉強もできなかった。そういう点でこれは詐欺と同じだと思います。
 私の学校からは結局八人の生徒が行くことになり、仁川で五〇人位の人と合流し、汽車で釜山に行き、船で日本に渡り、そこからトロッコのような汽車とトラックに乗り継いで富山に来ました。一九四三年六月のことです。それから四五年七月までいました。
 不二越では軸受課で旋盤工の仕事をしました。ローラーのようなものが回っている中で金属を磨いたり、切ったりする作業です。四〇から五〇才くらいの日本人の男の人と二人組みになって働きました。私が手に怪我をした時も、その人が病院までおぶって行ってくれました。労働時間は、普通午前八時から午後六時までで、間に一二時から一時までの休憩があり、都合九時間でした。日が長い時は一時間早く起きて働きました。昼夜の二交替制で、夜一週間働くと、次の一週間は昼といった具合でした。これにも二通りのサイクルがあって、一つは昼勤が八時から一二時、休憩をはさんで一三時から一八時、夜勤が二〇時から零時、休憩をはさんで一時から六時というサイクル、もう一つは、昼勤が六時から一〇時、休憩をはさんで一一時から一六時と、夜勤が一八時から二二時、休憩をはさんで二三時から四時というサイクルでした。
 日曜ごとに休日があり、洗濯をしたり、お風呂に入ったりしました。外出はできませんでした。賃金は全然受け取らなかったし、小遣いもくれなかった。そこで、不二越に来てから六ヶ月後に事務室に一〇人位でお金をくれる様に交渉に行きました。事務室には女の人が二人いましたが、もう少し待ってくれ、今後も働いてくれと言われ、追い返されました。抑圧的で、お金に関しては日本人とは話す雰囲気ではありませんでした。ですから、事情をのみこんでから、新潟から送り出されるまで、お金に関しては一言も言えませんでした。自分がいくら貰えるのかも聞けなかった。軸受の方では、勤労手帳も貰った記憶はありません。寮も李鐘淑さんたちとは別だったと思います。仁川からの五〇人は皆一緒でした。ほかの人達も皆お金は一銭も貰っていません。作業着を支給されただけです。ただ、死んだ人だけはいませんでした。
 寄宿舎は二階建てで、二階には八畳くらいの部屋が五つあり、一部屋一〇人で、寝る時頭がぶつかるほどでした。食事は米と麦の混ぜご飯が何日かに一度出たほかは大豆の絞りかすで、ひどいものでした。昼食は食堂で、日本人と韓国人は別々にかたまって食べましたが、内容は同じだったと思います。一ヶ月に一、二度家に手紙を出しましたが、おなかが空くと書いて送ったら家族から米の粉を送ってくれました。
 自由な時間はありませんでした。監視員はいませんでしたが、寮長からは、外出するなと言われていました。私は病院通いで外に出ましたが、辺りには何もなくて外出はしたくもありませんでした。病院へ行った時、韓国人の部落に柿があったのを見つけ、夜おなかが空いて、友達三人と拾いに行ったことがあります。
 怪我というのは、一九四四年一一月頃、ローラーで金属を切る作業をしていた時、人にぶつかった拍子に指を機械にはさまれたもので、どういう病院かは分かりませんが、歩いて二〇分くらいのところへ行きました。少し怪我をしただけなのに、寝かされて知らぬ間に医者に指を切断されてしまいました。
 一九四五年七月末、夜中に集合させられ、荷物も持たされず、新潟から船で沙里院に向いました。不二越から私たちを連れてきた人はそこでいなくなり、別の人が来て、一ヶ月家で待機せよと言われましたが、間もなく戦争が終わりました。当時はただでさえ娘が余っていた時代、まして私のように障害を背負った人間には条件の悪い結婚しか出来ませんでした。苦労の連続で、最初の相手とは離別、再婚の相手とも死別し、その後二〇年間行商をしながら三人の子供を育て上げてきました。今は目が見えず、付添いがいないと歩けない状態ですが、多分長い間の栄養失調のせいだと思います。
 この問題が解決されない限り、死ぬに死ねない思いです。
 右のとおり間違いありません。
     一九九三年五月一七日
崔福年

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:02 | 関連1. 第一次訴訟


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


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