富山地方裁判所の判決文-要旨

地裁判決文-要旨

主文
 一 原告らの請求をいずれも棄却する。
 二 訴訟費用は、原告らの負担とする。

一 原告らが被告工場で働くようになってから帰国するまでの経緯

1 原告李尾及び原告崔は、被告による女子勤労挺身隊員の募集に応募し、原告高は、徴用令書により、昭和一八年あるいは一九年から、それぞれ富山市内の被告工場で働くことになった。
2 原告らは研磨、旋盤などの作業に従事し、勤務は昼夜二交替制で、日勤と夜勤は、一週間交替で行われた。自由な外出は認められなかった。原告らは被告の寄宿舎で生活をしたが、狭い部屋で多くの人と寝泊まりし、暖房設備などはなかった。原告崔及び原告李は、女子勤労挺身隊員に応募する際、被告の従業員から、上級学校に通え、お花やタイプなどが習えると言われたが、これらのことは実行されなかった。また、原告崔は、昭和一九年秋頃、旋盤作業中に右手の人差指を負傷し、その一部を切断するに至った。
3 原告らは、被告工場で働いている間、一度も賃金を受け取ったことはなかった。
4 被告が朝鮮半島の沙里院に工場を建設することになったので、原告崔及び原告李は、昭和二〇年七月頃、被告従業員に付き添われて、沙里院に連れて行かれた。被告は、原告李及び原告崔に対し、工場が建設されるまでは自宅に待機するよう命じたが、その後、今日まで何らの連絡もしていない。
 原告高は、終戦後も、しばらくは被告工場で待機し、被告の指示に従って労働していた。そして、昭和二〇年一〇月下旬又は一一月頃、被告の指示により、博多まで行き帰国した。

二 原告らの賃金請求は認められるか

1(原告らと被告との法律関係)
(一) 原告李及び原告崔は、被告の募集に応じて被告工場で稼働したものであり、両者の法律関係は、雇用契約と認められる。被告は、右募集の際、「優遇する」として賃金を支払うことを約束した。この「優遇する」の意味は、被告における一般の従業員と同等の賃金を支払うことを約したものと解釈するほかない。
(二) 原告高は、徴用令書に基づき被告工場で稼働するようになったものであるから、被告との間に雇用契約が成立したと理解することはできない。しかし、被告は、原告高に対して賃金を支払うことを約しており、原告高は、これに対応して労働力を供給したのであるから、両者間には、雇用契約の規定を類推適用するのが相当である。被告は、徴用に際して、原告高に対し「日本人と同じように待遇する」旨約束したものであり、その意味は、被告における一般従業員と同等の賃金を支払うことを約したものと解釈するのが相当である。
2(弁済及び供託の主張について)
 被告は、原告らに対して、右賃金を支払っていたとは認められず、また、右賃金を供託した事実も認められない。
3(消滅時効)
 右賃金債権の履行期は、当時の工場法施行令の規定及び被告における賃金制度などに鑑み毎月末日と認められ、その結果同債権の時効期間は一年である(民法一七四条一号)。
 ところで、消滅時効が進行を開始するには、単にその権利の行使につき法律上の障害がないというだけではなく、さらに権利の性質上、又は、債権者の個人的事情を越えた客観的、一般的状況に照らして、その権利行使が現実に期待できるものであることが必要であると解するのが相当である。
 本件の場合、原告らの被告工場における就労期間中は、原告らと被告との関係や当時の日韓関係、戦局の状況に照らし、右賃金債権を行使することが現実に期待できる状況ではなかった。また終戦後は、日韓の国交断絶や、昭和四〇年に締結された日韓協定及び右協定二条の実施に伴う措置法並びにこれに関する日本国政府見解の下で、原告らが賃金債権を行使することは現実に期待できなかった。賃金債権の行使が現実に期待可能となったのは、平成三年八月二七日、日韓協定は、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない旨日本政府が公式表明した時以降である。したがって、右賃金債権の消滅時効の起算点は平成三年八月二八日であり、本件訴訟はそれより一年以上経過した後に提起されたもので、右賃金債権は時効により消滅した。
4(権利濫用について)
 時効の援用が権利濫用といえるためには、時効の援用が社会的相当性の見地から許容された限界を逸脱した場合であることが必要であるが、原告らは、時効進行開始後において被告に社会的相当性を逸脱した行為があったことについては、なんら主張、立証していないから、権利濫用の主張は失当である。

三 原告らの損害賠償請求及び謝罪広告の掲載請求は認められるか

1 不法行為に基づく損害賠償請求権には除斥期間の規定(民法七二四条後段)の適用があり、国際人権法違反に基づく損害賠償請求権も、その本質は不法行為に基づく請求権と同一であるから、同様に除斥期間の規定の適用がある。そして、除斥期間は、被害者の認識如何を問わず、一定の時の経過により当然に法律関係を確定させるものであるから(最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二〇九頁参照)、加害行為があり、損害が発生し、損害賠償請求権が成立した以上、除斥期間は、その後の事情の如何を問わず進行するというべきである。よって、前記各請求権が成立していたとしても、原告李及び原告崔については、帰国後から二〇年経過後の遅くとも昭和四〇年七月末までに、原告高については同じく同年一一月末までに消滅した。
 また、同様に、謝罪広告掲載請求権も、除斥期間の経過により消滅した。
2 国際人権法違反に基づく損害賠償請求権には除斥期間の適用はないとする原告らの主張は、採用できない。
3 除斥期間には、その性質上、権利濫用の法理を適用する余地はない(前掲最判参照)。

<戻る>
# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:04 | 関連1. 第一次訴訟

高徳煥さんの陳述書

甲第三号証

 一九四〇年代、韓国の若い人達は、日本の支配下で大変苦しい状態にありました。私は日本の大学へ行こうと思っていましたが、戦争でだめになってしまいました。その頃私は咸鏡北道の城津府旭町四三一番地に住んでいましたが、地元の若い人達は、満州に行き、あるいは敵地に送られ地元には、若い男は殆どいませんでした。一九四四年一〇月ころ、私は病院の庶務課に勤務していました。シライシシンゾウという東京大学出の人が院長でした。その時徴用令状が来て不二越の福田中隊に配属となり、百名ほどの教師や銀行員の人達と一緒に連行されました。城津の市役所から出た指名徴用です。マツキミノルという城津の警察署長から訓示を受け、軍需工場に送ると言われました。指名徴用の令状には○○へ○月○日、徴用は二年、「不二越」と書いてありました。協和会手帳は持たされませんでした。城津まで来た中隊長に引率されて、釜山へ行き、そこで服を消毒され、関釜連絡船で下関へ、それから汽車で富山へ来ました。
 福田中隊で一ヶ月厳しい訓練を受けました。福田は三〇才くらいでした。訓練所には所長が別にいました。高等文官でした。背が低くて、タバコを一日に五箱も吸いました。訓練期間中は軍事教練もありました。実際武器は持ちませんでしたが、戦地へ行った時の訓話がありました。私たちの胸には徴用マークがありましたが、これは差別マークのようなものでした。
 訓練の後、最初は旋盤作業やベアリングの検査などをしましたが、四五年になると、機械設備の疎開の仕事などの雑役に従事させられ、トラックの運転助手などもやらされました。仕事は八時から始まりましたが、そこには日本の大学生、日本の女子挺身隊、朝鮮の女子挺身隊、技術工、朝鮮の徴用工など五種類の人達がいて、旋盤の作業をしていました。女子学生たちはそれぞれの班の先生に連れられてきて、一日中監視され、帰る時も列を作って帰りました。それが勉強の代わりだったようです。働く時はお互いに言葉は交わしませんでした。朝鮮からの女子挺身隊の人達ともすれ違いましたが、話はできませんでした。労働時間は午前八時から午後六時くらいでしたが、戦争が押しつまってくると、二時間ぐらい増えて、休憩は食事の時間を除いて殆どありませんでした。
 食料がなくなってくると朝食ぬきのこともありました。昼食には三角のパンがよくでました。日本人は外へ出ておかゆのようなものを食べていまいたが、私たちは出られませんでした。休日もなく、日曜日も仕事をしました。
 寄宿舎には廊下の両側に部屋があり、一部屋に八人から十人くらい、頭をつけ合わせて寝ました。寝る前には廊下で分隊長が点呼をかけました。黙って外出すると、中隊長の前で殴られました。大変厳格で、個人的な行動は不可能でした。
 賃金は出発する時日本の本職工と同じと言っていましたが、一度も支給されたことがありませんでした。所長も労務係も賃金については頓着しませんでした。私達も徴用で死ぬ覚悟で来ていたので金には執着しませんでした。実際要求できるような空気ではなかったし、でも、私の場合は、すでに結婚していたので、金はやはり欲しかった。二一才までは応召でBC級戦犯の死刑もあり得ましたが、その点二二才で徴用で不二越へ来ていて、考えようによっては幸いだったとも言えます。日本人の給料にも関心がありませんでした。徴用というのは、そもそも自分で自分が管理できなかったのです。手帳なども記憶にありません。
 富山大空襲の時、工場内の放送で、下関方面からB29が新潟方面に向かっていると言っていたのを覚えています。空襲の時はみんなで田んぼの方に逃げました。爆撃後トラックで外へ出たら、神通川の川原に死体が並んでいました。戦災直後は憲兵が市内を管理していたようです。玉音放送を聞いた後、工場は一時作業が停止されましたが、その後も仕事はしました。戦後、市内を見て歩きましたが、一月以上煙が上がっていました。戦争後は挺身隊の姿はありませんでした。
 一〇月下旬か一一月に、歩いたり乗り物に乗ったりして大阪経由で博多へ行きました。途中広島の惨状も見ました。全部焼け野原でした。博多では一日か二日待って船に乗せられました。五〇〇〇屯くらいの木造船でした。関釜連絡船が逆さになって沈んでいるのが見えました。報復行為があるかと思って身を隠していた分隊長がちょっと現われて、すぐに消えました。帰る時、同じ船には二~三〇〇人乗りました。自分たちが先発隊で、後に残った人もいました。まれには、逃亡者もいました。分隊長のところへ、朝鮮人の班長が賃金についてかけ合いに行きましたがだめでした。釜山に着いて初めて三八度線が出来たことを知って驚きました。帰国後、運輸会社に一年勤め、キリスト教の信仰を持っていたので、三八度線を越えて南下し、後から妻も来ました。
 右のとおり間違いありません。

    一九九三年五月一七日
高徳煥

<戻る>
# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:03 | 関連1. 第一次訴訟

崔福年さんの陳述書

甲第二号証

 一九四三年五月、栄華国民学校の六年生になったばかりの頃、二人の日本人が来て「不二越に来ればお金も沢山貰えるし、卒業証書あげるし、中学、高校にもやらせてやる」と言いました。二人は不二越の人で、そのうちの一人は五〇代の老人でした。不二越まで連れて来て、その後も一人は工場で見かけたから、不二越の人に違いありません。そのとき、学校の先生は何も言いませんでした。だから人が集らなくて、不二越の人は学校へ来て先生を苦しめたようです。家は三人家族でしたが、生活が苦しく、勉強もしたかったので、私は不二越へ行くことを決意しました。親は反対でした。支度金などはもちろん一銭もありませんでした。帽子とか服は受け取りましたが、ですから物理的に強制されたわけではありませんが、金もくれないし、勉強もできなかった。そういう点でこれは詐欺と同じだと思います。
 私の学校からは結局八人の生徒が行くことになり、仁川で五〇人位の人と合流し、汽車で釜山に行き、船で日本に渡り、そこからトロッコのような汽車とトラックに乗り継いで富山に来ました。一九四三年六月のことです。それから四五年七月までいました。
 不二越では軸受課で旋盤工の仕事をしました。ローラーのようなものが回っている中で金属を磨いたり、切ったりする作業です。四〇から五〇才くらいの日本人の男の人と二人組みになって働きました。私が手に怪我をした時も、その人が病院までおぶって行ってくれました。労働時間は、普通午前八時から午後六時までで、間に一二時から一時までの休憩があり、都合九時間でした。日が長い時は一時間早く起きて働きました。昼夜の二交替制で、夜一週間働くと、次の一週間は昼といった具合でした。これにも二通りのサイクルがあって、一つは昼勤が八時から一二時、休憩をはさんで一三時から一八時、夜勤が二〇時から零時、休憩をはさんで一時から六時というサイクル、もう一つは、昼勤が六時から一〇時、休憩をはさんで一一時から一六時と、夜勤が一八時から二二時、休憩をはさんで二三時から四時というサイクルでした。
 日曜ごとに休日があり、洗濯をしたり、お風呂に入ったりしました。外出はできませんでした。賃金は全然受け取らなかったし、小遣いもくれなかった。そこで、不二越に来てから六ヶ月後に事務室に一〇人位でお金をくれる様に交渉に行きました。事務室には女の人が二人いましたが、もう少し待ってくれ、今後も働いてくれと言われ、追い返されました。抑圧的で、お金に関しては日本人とは話す雰囲気ではありませんでした。ですから、事情をのみこんでから、新潟から送り出されるまで、お金に関しては一言も言えませんでした。自分がいくら貰えるのかも聞けなかった。軸受の方では、勤労手帳も貰った記憶はありません。寮も李鐘淑さんたちとは別だったと思います。仁川からの五〇人は皆一緒でした。ほかの人達も皆お金は一銭も貰っていません。作業着を支給されただけです。ただ、死んだ人だけはいませんでした。
 寄宿舎は二階建てで、二階には八畳くらいの部屋が五つあり、一部屋一〇人で、寝る時頭がぶつかるほどでした。食事は米と麦の混ぜご飯が何日かに一度出たほかは大豆の絞りかすで、ひどいものでした。昼食は食堂で、日本人と韓国人は別々にかたまって食べましたが、内容は同じだったと思います。一ヶ月に一、二度家に手紙を出しましたが、おなかが空くと書いて送ったら家族から米の粉を送ってくれました。
 自由な時間はありませんでした。監視員はいませんでしたが、寮長からは、外出するなと言われていました。私は病院通いで外に出ましたが、辺りには何もなくて外出はしたくもありませんでした。病院へ行った時、韓国人の部落に柿があったのを見つけ、夜おなかが空いて、友達三人と拾いに行ったことがあります。
 怪我というのは、一九四四年一一月頃、ローラーで金属を切る作業をしていた時、人にぶつかった拍子に指を機械にはさまれたもので、どういう病院かは分かりませんが、歩いて二〇分くらいのところへ行きました。少し怪我をしただけなのに、寝かされて知らぬ間に医者に指を切断されてしまいました。
 一九四五年七月末、夜中に集合させられ、荷物も持たされず、新潟から船で沙里院に向いました。不二越から私たちを連れてきた人はそこでいなくなり、別の人が来て、一ヶ月家で待機せよと言われましたが、間もなく戦争が終わりました。当時はただでさえ娘が余っていた時代、まして私のように障害を背負った人間には条件の悪い結婚しか出来ませんでした。苦労の連続で、最初の相手とは離別、再婚の相手とも死別し、その後二〇年間行商をしながら三人の子供を育て上げてきました。今は目が見えず、付添いがいないと歩けない状態ですが、多分長い間の栄養失調のせいだと思います。
 この問題が解決されない限り、死ぬに死ねない思いです。
 右のとおり間違いありません。
     一九九三年五月一七日
崔福年

<戻る>
# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:02 | 関連1. 第一次訴訟


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


by fujikoshisosho

プロフィールを見る
画像一覧

更新案内

11月15日、東京本社行動と集会のご案内

カテゴリ

不二越強制連行・強制労働とは
第二次訴訟年譜
原告の証言
国内での抗議行動レポート
韓国レポート
寄稿
関連1. 第一次訴訟
関連2. 外国籍差別問題
関連3. 原発と不二越訴訟
不二越会社動向
日韓交流
関連動向
出版物の販売
連絡会ニュース
リンク集
企画
問い合わせ

最新の記事

11月15日、不二越東京本社..
at 2017-10-22 16:53
11月15日、東京集会
at 2017-10-16 14:08
三菱重工に賠償命じる 201..
at 2017-09-06 15:51
2017.7.29~8.2 ..
at 2017-09-06 15:51
2017.7.31 不二越正..
at 2017-09-06 15:50

以前の記事

2017年 10月
2017年 09月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 03月
more...

検索

ブログパーツ

画像一覧

ブログジャンル

法律・裁判
歴史