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崔姫順さんの証言

崔姫順さんの証言_b0156367_1803891.jpg私は1931年2月2日、全州市に生まれました。家族は父母の外は弟が1人いました。しかし父と弟は私が小学校3年生のときに満州に行って,そのまま帰ってきませんでした。父がいなくなってから,私の家は非常に貧しくなりました。母は家政婦をしながら私を育ててくれました。家は貧しかったのですが、学校での勉強は得意で成績がよく、特に数学が得意でした。学校で日本については日本と韓国(当時の朝鮮)は「内鮮一体」であり日本は韓国を守ってくれる国だと教わっていたので、いい国なんだと思っていました。豊かな国だとも聞かされていました。

小学校時代の私の夢は外交官になることでした。しかし経済的な理由から小学校を卒業しても中学に進学することは困難な状況でした。

私は6年生だった1944年 海星尋常小学校に通っていたとき、女子勤労挺身隊に入れと薦められました。学校へ訪れていた日本人と校長の先生が勤労挺身隊に参加することを薦めていました。日本の不二越に行けば,お金も稼げるし,勉強もできる。」「食事は十分食べられる。」「日本に行ったら,何でも習うことができ,立派な人になれる。」という魅力的な話をしました。また、担任の先生は再び一人ひとりの学生を呼んで、不二越に行くように説得しました。先生のおっしゃったことを信じていた私は不二越へ行こうと決心しました。

先生に不二越に行くことを告げたところ、親の承諾をもらってくるように言われたので,私は母親に不二越に行きたいと話しました。しかし母親は、私のことをひどく心配し、一人娘だから日本にやることはできない,と強く反対しました。

母親は、学校にも出かけていって担任の先生に抗議し,私を日本へやるわけにはいかないと言ったそうですが,担任の先生からは決まったことは仕方ないと言われました。また先生の言葉を信じ込んでいた私が日本に行きたいとしつこく母を説得したため、母親もしぶしぶ承諾せざるを得ませんでした。

1945年2月25日ころ、私たち全州からの挺身隊員50名は、全州を出発して、釜山で他の地方からの挺身隊と合流した後、3月1日日本に到着しました。出発前には全州からの挺身隊員50名が旅館に一泊して合宿し,引率のカナヤ先生から日程などの説明を受けました。この合宿がまるで軍隊に行くような雰囲気だったことをおぼえています。この合宿のときに、母が日本に持っていくための香煎(ミスカル)と着物を届け出くれましたが、これが出発前に母と会って話をした最後の機会になりました。

不二越に到着した翌日から、約1か月にわたり軍隊式の訓練が行われました。運動場に毎日出て、軍人のように、「歩調取れ!」と号令をかけられて軍隊式の行進の練習を繰り返すのです。この訓練のときはまだすごく寒くて、手が凍るように冷たくなり、本当につらい思いをしました。

ともかく何をするにも軍隊式で,上の人の命令に従わないとひどく叱られました。訓練中にときどき、遠くにいる隊長が手をあげて「集合!」と号令をかけることがあるのですが、そのときはすぐに走って集合しなければならず、集合に遅れると中隊長から平手で頬をぶたれました。このような厳しい軍隊式の訓練を受けて、勧誘のときに聞いた話と全く違うと思った私は、韓国に帰りたいと思いました。

私は、不二越では軸受2課に所属し、ベアリングの仕上げの仕事をしていました。同じ課に私の知っている隊員が3人ほどいましたが、日本人もたくさん働いていました。日本人の女学生たちが働いており、この人たちがどこから来たのかはよく分かりませんが、週に一度は実家に帰っていて、実家から持ってきた餅などを食べさせてもらっていた記憶があります。

朝6時頃起きて7時に出勤しました。仕事が終わる時間は時期によって違っていたと思いますが、遅くなることが多く、夏でも少し暗くなってから帰っていました。寮に帰って食事をし、体を洗うと、それから就寝時間である10時になるまで、そう時間はかかりませんでした。

私の仕事は、機械でベアリングを磨くのですが、1日に磨くベアリングのノルマが決められていて、食事の時間以外は一生懸命仕事をしないとノルマがこなせませんでした。機械の前で1日ずっと立ちっぱなしの仕事でした。日本人の男性の工場長が仕事場を行ったり来たりして私たちを監視していました。私はまじめだったのでこの工場長から叱られたことはありませんが、物を落としてすぐ拾わないと、大きな声で怒られました。

機械の前には機械に動力を伝えるベルトが高速で回転していました。私の2つ隣の日本人の女学生が、このベルトに巻き込まれて大けがをしたことがありました。ベアリングにナンバーを付ける機械にベアリングを送り込む作業をしていて指が切断された日本人の男性を見たこともあります。

また私は、金属を削る機械に指を挟まれてケガをしたこともあります。私が機械に指を入れて作業をしているときに友達がトイレから帰ってきて私の機械のスイッチを入れてしまったのです。このときは左手の人差し指が削られて骨が見える状態でした。一週間は病院に通いましたが、その間も仕事は休めず、働きながら病院に通いました。

私の仕事は力は必要ありませんが、目が病気になりました。私がミスをすると、それまでベアリングを削ったりしていた人の仕事は無駄になるので、集中して作業しなければならず、目がとても疲れたのです。病名はよくわかりませんが、あまり仕事に熱中したので生じた病気だと言われました。病気のために目がまぶしくて見えにくくなり、上を見上げることができなくなりましたが、下の方は見ることができたので作業を続けました。この目の病気のために休みはもらっていませんし、病院にも行っていません。

私が暮らした寮では一部屋に25人くらいの挺身隊員が寝泊まりしていました。工場からは離れたところにある寮で、挺身隊員10人くらいがまとまって工場と寮の間を行き来しました。工場に行く前と帰ってきた後、それに寝る前に点呼がありました。寝るときには日本人の先生が寮内を巡回していました。

寝る時間や起床時間、工場に行き、また帰る時間など、決められた規則を守らないとひどく怒られました。病院に行くときでも工場の正門で出入りの時間をチェックされました。外出して戻ってくる時間を守らない人がいて、この人たちは罰を受けていました。また、工場の門のところには門番がいて,通る人を監視していました。
私自身、あまり怒られることはありませんでしたが、それでも寮に入って間もない1945年3月ころ、みそ汁にご飯を入れて食べてはいけないと言われていたのにそれを守らなかったために罰を受けました。不二越では食事中も監督が巡回しており、その監督に見つかったのです。この時は食事の間1時間ぐらい食堂の外で立たされていました。こんな生活ですから、友達同士では韓国に早く帰りたいと話し合っていました。

寮での食事は,朝と夜がご飯とみそ汁とたくわんか海苔くらいでした。海草が入ったスープが出ることもありましたが私の口には合いませんでした。各部屋に配られるご飯を一部屋25人程で分けると、茶碗に半分もありませんでした。ご飯は豆ご飯で、夏にはくさくなっていたときもありました。

昼食は三角パンが3つだけ出ましたが、みんな朝のうちに食べてしまっていました。ただ私はまじめだったこともあって昼までとっておいてお昼に食べました。何しろお腹が空くのがつらい生活でした。お腹が空いて苦しいのに耐えきれず寮から逃げ出した人の話を聞いたことがあります。

寮から手紙を出すときは,まず寮の事務所に封を開けて出していました。中身を検閲されるのです。ですから、手紙には韓国に帰りたいという本当の気持ちは書けるはずもなく、元気でやっていますとだけしか書けませんでした。

終戦の日のしばらく前から毎日のように空襲警報が鳴るようになって、寝られなくなりました。靴と非常袋を枕元に置いて寝て、警報が鳴ったら電灯は付けずにすぐに逃げるということが続き、毎日寝不足で眠かったのをおぼえています。

8月1日には、夕食後に警報が鳴り、布団をかぶって川辺に非難していたところ,夜10時くらいから明け方にかけて激しい空襲がありました。このときは川辺から焼夷弾がはじける様子が見えて、その破片が自分のところに飛んでくるような気がして本当に怖い思いをしました。空襲の後、富山市内は一面灰になっていました。

不二越にいる間、賃金は全くもらっていません。行事と言えば、一度だけ、工場で働く私たちの様子を撮影した映画を見せてもらったことがあります。(これは韓国に送って家族に見せるという説明でした。)お花や書道の時間はありませんでしたし、勉強も教えてもらったこともありません。このように韓国で勧誘のときに聞いた話は全くのでたらめでした。

1945年8月15日,みんなで集まってラジオ放送を聞き、終戦を知りました。そのときまで自分は空襲で死ぬだろうと思っていたので、終戦と聞いて、生き延びたというほっとした気持ちがしました。

解放後は仕事がなく、食事はもらっていましたが、毎日お腹が空いていて、着物と豆を交換しながら何とか暮らしていました。帰国前には持っていた着物は全て交換してしまいました。解放後もなかなか韓国に返してくれませんでしたが、道庁の関係者が迎えに来てようやく帰れることになりました。韓国に帰ってから聞いた話ですが、解放後なかなか私が日本から帰ってこないので、母はひどく心配し、小学校の担任(韓国人で、後に大学の先生になりました。)の家に押しかけて行き、「娘が帰ってこなければ私(母のこと)の死骸を片付けるか,私の娘をあなたが連れてきなさい。」と言ったことがあるそうです。母は私を待ちわびて、解放の日から毎日毎日、全州駅に出てきて、その駅の終列車を見るまで家に帰らなかったそうです。そのときの母の気持ちを思うと、私の苦労よりも母に心配をかけたことが申し訳ないという気持ちで、胸が一杯になります。

1945年10月に,ようやく私は帰国することができました。私は帰国後、1948年に結婚し、2人の子供をもうけました。主人も日本にいた経験がある人なので、私の挺身隊での経験を話すことができました。でも、帰国後しばらくして、慰安婦挺身隊があったと人から聞いたとき、私が参加したのが慰安婦挺身隊でなくて不幸中の幸いと思いましたが、世の中にこんなことがあるのかと、くやしくて歯をかみました。

私は、本当に幼いころに日本に渡り、上の人から命じられるままに正直に一生懸命働きました。勧誘の言葉を信じて挺身隊に参加してしまったことを思い出すと、今でも後悔の気持ちがおこります。日本政府と不二越に言いたいことは、私のような幼い子供たちを連れて行ったのに、良心がないということです。

自分たちの過ちを省み、過ちを謝罪し、補償しなければ、この問題は解決できないといくことを伝えたいです。ですから私は原告として訴訟に参加することになりました。日本政府と不二越が本気で過ちを認める姿を見せることを願っております。
by fujikoshisosho | 2014-04-01 18:03 | 原告の証言


連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp


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