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李鐘淑さんの陳述書

一九四四年、私が国民学校六年になったとき、事業がうまくいかなくなり、父が北海道に出稼ぎに行きました。ある日、日本人の町内会長が来て、遊んでいないで学校へ行けと言いました。そこで、ヨンカン国民学校へ行くと、不二越のきれいなパンフレットを見せられ、風呂もプールもあるのを見ました。学校で応募生徒が集まらないので、町内会に働きかけたのです。パンフを持ってきた人は不二越の腕章をしていました。ここへ行けば、学校は卒業できるし、女学校にも行けるし、金も沢山貰えると言われました。また、タイプライターやミシン、お花なんかも教えてくれると言われました。一〇名の募集でしたが、応じたのは私を含めて七名でした。説明を聞いた次の日、簡単な荷物をまとめて、光華門の前に集合しました。そこには二〇〇~二五〇名ほどの女子生徒がいて、写真を撮りました。そのとき憲兵もいました。不二越の人三人と、憲兵一人の四人が付添って、ソウルから汽車で釜山へ行きました。そこで身体を消毒され、連絡船で下関に向かいました。このとき不二越の三人のうちの一人がいなくなり、残りの二人と憲兵一人が一緒に不二越まで来ました。
 汽車に乗って来る途中どこかで一泊しました。東京だったかどうかわかりませんが、そこで地下鉄に乗った記憶があります。汽車の中からは、左手に山が見えました。それから一ヶ月の訓練を受けました。訓練は軍隊式でひどいものでした。訓練の後、精機四課に配属されて、「小面取り」という研磨の仕事に従事しました。入社のとき社員手帳をくれましたが、それには「昭和一九年七月六日入社」となっています。また、生年月日は戸籍上は昭和六年一〇月二九日ですが、手帳には一九日となっています。帰る直前に一一寮の寮長がそれを回収し、二〇年七月一七日の日付で預金額を「八拾七円七拾六銭」と記入して返してくれました。実際に返してくれたのは七月二〇日です。
 仕事は「赤番」「青番」の二交替でした。精機四課には六人の日本人女性がいて、労働時間は同じでしたが、仕事を教えた後いなくなりました。夜の仕事のときは一二時に御飯を食べました。ハンドルを回している人が、眠くて倒れたこともありました。休日は有りませんでした。食事のときは主に三角のパンがでましたが、まずくてとても食べられませんでした。そのほか海藻のビビンバのようなものも出ました。ひもじくて、セリを採って食べたことがありますが、それはおいしかったことを覚えています。昼は大きな食堂で、日本人、韓国人別々に集まって食べました。
 寄宿舎は汚いところで、布団も汚くて、ひっくり返して使っていました。部屋は一二畳くらいのところを半分に仕切って、六畳相当にし、それぞれに六人ずつ入れられていました。夜は勉強する時間がありました。寮長みたいな人が、本もないので黒板で漢字を教えてくれ、生け花なども教えてくれました。寮長はいわば監視役で、私達は身動きできませんでした。女の先生が三人いましたが、一人は池森という三〇代、もう一人は林という二〇代の人でした。池森という人のほうが怖くて、殴られたこともありました。
 小遣いは少し貰ったことがあります。しかし、デパートに行っても物が買えるような額ではありませんでした。えんどう豆をつないだようなものを買うのが精一杯でした。
 手帳は記入のため三回行ったり来たりしましたが、給料のことは聞かされませんでした。八七円なにがしは、トータルとして記入されたものです。給料については言ってはくれないし、また聞けるような状況でもありませんでした。あるとき、二一才の先輩の「姉さん」が聞きに行ったら、「そんなことを聞いてどうする、それでどうするのか」といって、池森さんから殴られるのを見ました。結局、私達は、一銭も給料は貰っていません。
 帰国の経緯ですが、一九四五年七月二〇日突然「沙里院に分工場を建てるので帰国して先輩として後輩を指導しなさい」と言われました。夜中に汽車に乗り、船に乗り継ぎました。船は大きな木造船でした。海上には機雷が浮いていました。私達は船室で竹製の浮きを担いで座っていました。船酔いしたので甲板に出てみたら、兵隊が「この船はステッセルの乗った船だ」と言っていました。空襲警報が鳴ったので、佐渡に寄って、一泊しました。それから清津港に着き、国民学校に連れて行かれ、さらに沙里院の公会堂に収容され、最後にソウルの京畿道道庁へ行ってそこで解散させられました。帰るときも沙里院までは、不二越の人が六~七名が付き添い、後は知らない人でした。「これからどうするのか」と聞くと、「家で待機せよ」とのことでした。家に帰って二〇日目に祖国は解放になりました。荷物は後の船で送るとのことでしたが、その後、不二越からは何の音沙汰もありません。ですから私は今でも不二越の従業員なのです。小さい子供の胸に言い聞かせて、これまで不二越に言われたことを守り通してきた私達と、不二越側が面会もしないというのは非常に残念です。
 右のとおり間違いありません。

 一九九三年五月一七日

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by fujikoshisosho | 2008-07-06 14:01 | 関連1. 第一次訴訟


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