崔福年さんの陳述書
甲第二号証
一九四三年五月、栄華国民学校の六年生になったばかりの頃、二人の日本人が来て「不二越に来ればお金も沢山貰えるし、卒業証書あげるし、中学、高校にもやらせてやる」と言いました。二人は不二越の人で、そのうちの一人は五〇代の老人でした。不二越まで連れて来て、その後も一人は工場で見かけたから、不二越の人に違いありません。そのとき、学校の先生は何も言いませんでした。だから人が集らなくて、不二越の人は学校へ来て先生を苦しめたようです。家は三人家族でしたが、生活が苦しく、勉強もしたかったので、私は不二越へ行くことを決意しました。親は反対でした。支度金などはもちろん一銭もありませんでした。帽子とか服は受け取りましたが、ですから物理的に強制されたわけではありませんが、金もくれないし、勉強もできなかった。そういう点でこれは詐欺と同じだと思います。
私の学校からは結局八人の生徒が行くことになり、仁川で五〇人位の人と合流し、汽車で釜山に行き、船で日本に渡り、そこからトロッコのような汽車とトラックに乗り継いで富山に来ました。一九四三年六月のことです。それから四五年七月までいました。
不二越では軸受課で旋盤工の仕事をしました。ローラーのようなものが回っている中で金属を磨いたり、切ったりする作業です。四〇から五〇才くらいの日本人の男の人と二人組みになって働きました。私が手に怪我をした時も、その人が病院までおぶって行ってくれました。労働時間は、普通午前八時から午後六時までで、間に一二時から一時までの休憩があり、都合九時間でした。日が長い時は一時間早く起きて働きました。昼夜の二交替制で、夜一週間働くと、次の一週間は昼といった具合でした。これにも二通りのサイクルがあって、一つは昼勤が八時から一二時、休憩をはさんで一三時から一八時、夜勤が二〇時から零時、休憩をはさんで一時から六時というサイクル、もう一つは、昼勤が六時から一〇時、休憩をはさんで一一時から一六時と、夜勤が一八時から二二時、休憩をはさんで二三時から四時というサイクルでした。
日曜ごとに休日があり、洗濯をしたり、お風呂に入ったりしました。外出はできませんでした。賃金は全然受け取らなかったし、小遣いもくれなかった。そこで、不二越に来てから六ヶ月後に事務室に一〇人位でお金をくれる様に交渉に行きました。事務室には女の人が二人いましたが、もう少し待ってくれ、今後も働いてくれと言われ、追い返されました。抑圧的で、お金に関しては日本人とは話す雰囲気ではありませんでした。ですから、事情をのみこんでから、新潟から送り出されるまで、お金に関しては一言も言えませんでした。自分がいくら貰えるのかも聞けなかった。軸受の方では、勤労手帳も貰った記憶はありません。寮も李鐘淑さんたちとは別だったと思います。仁川からの五〇人は皆一緒でした。ほかの人達も皆お金は一銭も貰っていません。作業着を支給されただけです。ただ、死んだ人だけはいませんでした。
寄宿舎は二階建てで、二階には八畳くらいの部屋が五つあり、一部屋一〇人で、寝る時頭がぶつかるほどでした。食事は米と麦の混ぜご飯が何日かに一度出たほかは大豆の絞りかすで、ひどいものでした。昼食は食堂で、日本人と韓国人は別々にかたまって食べましたが、内容は同じだったと思います。一ヶ月に一、二度家に手紙を出しましたが、おなかが空くと書いて送ったら家族から米の粉を送ってくれました。
自由な時間はありませんでした。監視員はいませんでしたが、寮長からは、外出するなと言われていました。私は病院通いで外に出ましたが、辺りには何もなくて外出はしたくもありませんでした。病院へ行った時、韓国人の部落に柿があったのを見つけ、夜おなかが空いて、友達三人と拾いに行ったことがあります。
怪我というのは、一九四四年一一月頃、ローラーで金属を切る作業をしていた時、人にぶつかった拍子に指を機械にはさまれたもので、どういう病院かは分かりませんが、歩いて二〇分くらいのところへ行きました。少し怪我をしただけなのに、寝かされて知らぬ間に医者に指を切断されてしまいました。
一九四五年七月末、夜中に集合させられ、荷物も持たされず、新潟から船で沙里院に向いました。不二越から私たちを連れてきた人はそこでいなくなり、別の人が来て、一ヶ月家で待機せよと言われましたが、間もなく戦争が終わりました。当時はただでさえ娘が余っていた時代、まして私のように障害を背負った人間には条件の悪い結婚しか出来ませんでした。苦労の連続で、最初の相手とは離別、再婚の相手とも死別し、その後二〇年間行商をしながら三人の子供を育て上げてきました。今は目が見えず、付添いがいないと歩けない状態ですが、多分長い間の栄養失調のせいだと思います。
この問題が解決されない限り、死ぬに死ねない思いです。
右のとおり間違いありません。
一九九三年五月一七日
崔福年
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一九四三年五月、栄華国民学校の六年生になったばかりの頃、二人の日本人が来て「不二越に来ればお金も沢山貰えるし、卒業証書あげるし、中学、高校にもやらせてやる」と言いました。二人は不二越の人で、そのうちの一人は五〇代の老人でした。不二越まで連れて来て、その後も一人は工場で見かけたから、不二越の人に違いありません。そのとき、学校の先生は何も言いませんでした。だから人が集らなくて、不二越の人は学校へ来て先生を苦しめたようです。家は三人家族でしたが、生活が苦しく、勉強もしたかったので、私は不二越へ行くことを決意しました。親は反対でした。支度金などはもちろん一銭もありませんでした。帽子とか服は受け取りましたが、ですから物理的に強制されたわけではありませんが、金もくれないし、勉強もできなかった。そういう点でこれは詐欺と同じだと思います。
私の学校からは結局八人の生徒が行くことになり、仁川で五〇人位の人と合流し、汽車で釜山に行き、船で日本に渡り、そこからトロッコのような汽車とトラックに乗り継いで富山に来ました。一九四三年六月のことです。それから四五年七月までいました。
不二越では軸受課で旋盤工の仕事をしました。ローラーのようなものが回っている中で金属を磨いたり、切ったりする作業です。四〇から五〇才くらいの日本人の男の人と二人組みになって働きました。私が手に怪我をした時も、その人が病院までおぶって行ってくれました。労働時間は、普通午前八時から午後六時までで、間に一二時から一時までの休憩があり、都合九時間でした。日が長い時は一時間早く起きて働きました。昼夜の二交替制で、夜一週間働くと、次の一週間は昼といった具合でした。これにも二通りのサイクルがあって、一つは昼勤が八時から一二時、休憩をはさんで一三時から一八時、夜勤が二〇時から零時、休憩をはさんで一時から六時というサイクル、もう一つは、昼勤が六時から一〇時、休憩をはさんで一一時から一六時と、夜勤が一八時から二二時、休憩をはさんで二三時から四時というサイクルでした。
日曜ごとに休日があり、洗濯をしたり、お風呂に入ったりしました。外出はできませんでした。賃金は全然受け取らなかったし、小遣いもくれなかった。そこで、不二越に来てから六ヶ月後に事務室に一〇人位でお金をくれる様に交渉に行きました。事務室には女の人が二人いましたが、もう少し待ってくれ、今後も働いてくれと言われ、追い返されました。抑圧的で、お金に関しては日本人とは話す雰囲気ではありませんでした。ですから、事情をのみこんでから、新潟から送り出されるまで、お金に関しては一言も言えませんでした。自分がいくら貰えるのかも聞けなかった。軸受の方では、勤労手帳も貰った記憶はありません。寮も李鐘淑さんたちとは別だったと思います。仁川からの五〇人は皆一緒でした。ほかの人達も皆お金は一銭も貰っていません。作業着を支給されただけです。ただ、死んだ人だけはいませんでした。
寄宿舎は二階建てで、二階には八畳くらいの部屋が五つあり、一部屋一〇人で、寝る時頭がぶつかるほどでした。食事は米と麦の混ぜご飯が何日かに一度出たほかは大豆の絞りかすで、ひどいものでした。昼食は食堂で、日本人と韓国人は別々にかたまって食べましたが、内容は同じだったと思います。一ヶ月に一、二度家に手紙を出しましたが、おなかが空くと書いて送ったら家族から米の粉を送ってくれました。
自由な時間はありませんでした。監視員はいませんでしたが、寮長からは、外出するなと言われていました。私は病院通いで外に出ましたが、辺りには何もなくて外出はしたくもありませんでした。病院へ行った時、韓国人の部落に柿があったのを見つけ、夜おなかが空いて、友達三人と拾いに行ったことがあります。
怪我というのは、一九四四年一一月頃、ローラーで金属を切る作業をしていた時、人にぶつかった拍子に指を機械にはさまれたもので、どういう病院かは分かりませんが、歩いて二〇分くらいのところへ行きました。少し怪我をしただけなのに、寝かされて知らぬ間に医者に指を切断されてしまいました。
一九四五年七月末、夜中に集合させられ、荷物も持たされず、新潟から船で沙里院に向いました。不二越から私たちを連れてきた人はそこでいなくなり、別の人が来て、一ヶ月家で待機せよと言われましたが、間もなく戦争が終わりました。当時はただでさえ娘が余っていた時代、まして私のように障害を背負った人間には条件の悪い結婚しか出来ませんでした。苦労の連続で、最初の相手とは離別、再婚の相手とも死別し、その後二〇年間行商をしながら三人の子供を育て上げてきました。今は目が見えず、付添いがいないと歩けない状態ですが、多分長い間の栄養失調のせいだと思います。
この問題が解決されない限り、死ぬに死ねない思いです。
右のとおり間違いありません。
一九九三年五月一七日
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by fujikoshisosho
| 2008-07-12 14:02
| 関連1. 一次訴訟 金景錫さん

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by fujikoshisosho
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