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日本の戦争責任を問う(上)

日本の戦争責任を問う
対不二越百年訴訟団 団長 金景錫

   第二の独立運動として
 不二越訴訟とはとかくなんぞやという疑問にぶつかります。特に終戦後の出生の方にとっては「私の生まれる前のことなので、今更なんで不二越のことをほじくり出すのか」という疑問を感じる方もあります。
 戦後五〇年、我々はこの問題にとりくんできました。私もこの問題に対して過去一〇年間、資料探しやもろもろの準備のために時を費やしてきました。
 当時の日本の政情は軍隊が頭を持ち上げ、軍事政権に移ったのが東条内閣であります。この軍事政権は日本の国民、日本のあらゆる経済・政治体制を根本から覆したのであります。のみならず、当時植民地だったわが国もその巻き添えをくって、非常に莫大な被害を受けました。
 天皇制の日本の国家体制の下、ありとあらゆる民衆を縛り付ける法律があった。これが当時朝鮮半島に施行され、命令一本で数十万、数百万を超える若き青年たちが強制連行されたのであります。国家総動員令。この怪物によって、当時朝鮮半島の物資、男女を問わず、老若のいかんを問わず、この戦争に協力せよと強要されました。
 筆舌に尽くし難い悪行を重ねた日本帝国主義者たちの姿は、今日心ある人々によって明らかにされつつあります。
 一八、九歳の少女たちの胸を軍歌で踏みにじり、列をなして蹂躙したのはどこの誰でしょうか!「お前たちは人間じゃない。動物のように扱うから苦情を言うな!」とわれわれは戦争の第一線に送り込まれたのです。
 被害を受けたわれわれは、今声を大にして彼らに迫っています。
 戦争加害国日本の国民は十七、八にも及ぶ援護法でもってカバーされています。しかしそこには、奇怪にも国籍条項なるものがあって、「日本の国民にあらざる者は、その恩恵は受け難い」と。原爆でやられた人も、朝鮮・韓国人なるがゆえに見捨てられている。それが戦後五〇年を経て、今なお続いている現状であります。
 日本の戦争責任のうちで最も重い責任の一つは、彼らの意のままに、わが国の若き青年たちを勝手に狩り出したことです。人命を無視したこの行為は、必ずや彼らの頭上に舞い戻るものと私は確信しております。わが国の青年たちは、当時確かに「日本国民として」死んでいるはずなんです。それをいざ戦争が終わると、「日本は知らんよ。それはお前たちの勝手だ」と、こういう理不尽なことを平気でやるのが日本政府のやり方です。アジア侵略の責任は一切取らない!
 日本政府は朝鮮・韓国人に対して根強い偏見をもっています。その偏見が今もなお「在日」のみなさんの頭の上に降りかかり、あらゆる不利益を被っているのであります。税金は出させるけれども、参政権は認めない! 世界に類のないことを日本政府はやっています。あつかましいにもほどがある!
 戦後問題の解決なくして未来の友誼はありません。
 一九四五年八月一五日。我らの祖先の闘いのおかげで我が国は解放され、独立することができました。しかし戦争責任の問題の解決がない限り本当の意味での独立はない。私はそう思っています。当時私は幼少のため独立運動に直接参加できませんでしたが、これは第二の独立運動だ。ある意味においては、私もその一員としての闘いをしてきました。
 いつまで続くか。いつまでも続く訳ではありません。必ずきりがあります。そのきりがもう見えてきています。この歴史の転換点を得るために我々は今闘っています。決してひるまない。決して怖けない。これが私ども原告団の運動でありますし、百年訴訟宣言の根本的な精神でもあります。

   日本の侵略戦争に動員させられた朝鮮民族
戦争責任、アジア侵略の戦争責任は、もともと一九三一年「満州」の軍閥-張作霖との柳条湖事件からです。それを盾にして、世界で最強の関東軍が出動し、それ以来中国本土、それが昂じて太平洋戦争へと侵略を拡大した。
 なぜ日本が戦争をしなければならなかったのか。財閥が後ろを支えたのであります。軍閥と財閥の馴れ合いで起こったこの戦争が、日本国民を不幸にし、隣の国まで不幸にし、アジア各国の民族にまで被害を及ばせたことに対し、日本政府は責任を取るべきであります。
 従軍慰安婦の問題にしても、軍が動員して前線に送り出した事実を政府が認めながらも、「国民基金」なるものを作り出しました。なぜ政府が責任を取らないのか! 今の日本の政治家の考えていることは実に図りかねない。
 日本では、いわゆる「十五年戦争」における戦争責任を、形式的にごく一部の人に取らせていますが、最も注目すべきことは、その実は「十五年戦争」の責任をわが国の仲間が取らされているのであります! その一例が、捕虜虐待の罪だというので、一二六人が絞首刑にされた。戦争が激烈になるに従って、やがて捕虜虐待の罪が必ず問われるだろうと思った日本の軍閥は、捕虜収容の総責任をわが国のホン中将に任せました。狡猾なる仕種が窺えるその一例であります。
 わが国の青年たちによって、わが国の少女たちによって、「大東亜戦争」なるものの後始末をさせられた! 人命を無視し、自分の国の出来事をよその国の人たちによって償わせたということは、必ずこれを歴史に問わなければならない。私はそう思っています。

   日本の植民地支配-皇民化政策
 わが国は日帝の植民地時代に、先祖代々から伝わった自分の姓-名字を名乗ることができませんでした。私は今は金ですが、当時は金城(かねしろ)と強制的に名乗らされました。それに反抗するものは非国民だと。いわゆる創氏改名令ですね。その上っ張りだけは、非常にきれいな言いぐさなんです。いわゆる皇民化政策。内鮮一体。
 朝鮮民衆はそれに反抗しました。林(イム)とか、南(ナム)姓の人たちは、創氏改名を断固として拒否しました。いいように呼べばいいじゃないかと。林(イム)氏は「はやし」ととってもいいじゃないか。南(ナム)氏というのは「みなみ」といってもいいじゃないか。当時朝鮮総督府の南一郎の例えをとって、陸軍大将の偉い方なんですが。
 このような実態のもとに、あらゆるものが戦争の動員されました。もしこれに反抗すると「天皇に反抗する」と言われました。当時は天皇の名が出ると、皆直立不動の姿勢をとらされました。六十歳以上の方はそれが記憶にあると思うんですけれども、言葉に窮するとよく日本の官吏は天皇の名を通して、それを抑圧しました。天皇は万病封じの薬みたいなものでした。天皇の名が出ると、それに一言も反抗することができませんでした。それが当時の朝鮮の生活でした。
 朝鮮民衆のシンボルでありますところの、白衣-白い着物が着られませんでした。白い着物を着て町の中に出ると、日本の官憲が墨を溶いた水をぶっかけます。また、先祖ゆずりの髪を結って外に出ると、ハサミでもってそのちょんまげを切ってしまいます。古語にいわく、身体は父母からゆずるもの、これを傷つけるな、という論語にもありますが、それでもって、その悔しさで自殺した人も数多くいます。
 朝鮮総督府ができると、植民地政策の最も重要な政策として神社を建てました。ソウルのナムサンというところには、戦後になって伊藤博文をハルビンの駅頭で射殺した安重根様の碑が建てられましたが、そのちょっと上のところに、当時朝鮮神宮というものが建てられました。そこを根拠にして朝鮮半島津々浦々に、最もその地において有名な場所、由緒ゆかりのある地に、一郡に一神社が建てられました。そこで一日と十五日、学生たちを必ずそこにお参りさせる、神社参拝です。指導者階級の朝鮮人には、そこを参拝するように強要されました。参拝拒否は罪になります。宗教の自由なんてあったものじゃない。キリスト教の人たちは捕らえられて刑務所に入れられ、拷問を受けて死にました。神道は栄えました。
 小学校、中学校あらゆる学校に神社が造られました。そこにもやっぱり天照大神。いろいろな神話を歴史科の中で日本人教師によって教育されました。私は小学校のころ神武天皇以来百二十四代、今は百二十五代なんですけれども、全部天皇の名前を覚えさせられました。
 教育勅語を暗唱しないと学生たりえません。青年学校というものを作って軍人勅諭を覚え込ませる。最もひどいのが皇国臣民の誓詞。いわゆる「われら皇国臣民なり。忠誠をもって軍国に…」この三箇条になるものがありました。
 朝鮮の年取った老人たちを駅頭に立たせて、直立不動の姿勢で「皇国臣民」を唱えさせました。それをやらないと汽車の切符が買えないので、涙ながらにそれを唱える朝鮮民衆の姿をみなさん思い浮かべて下さい。私共は当時それを実際目の当たりに見て育ちました。この私が日本と日本人に対していい印象があるわけがありません。
 朝夕に皇居礼拝というものがありました。東京の皇居がある方に向かって、深く深く最敬礼しなければならない。このような仕草ですね。それを日本人の手によって私共は教え込まれました。
 天皇の名のもとにあらゆる制度・法律が施行され、そして運用されていったのであります。足に靴を合わせるのが常識です。ところが当時の日本の軍隊、日本の法律、日本の社会制度は、靴に足を合わせろというような状態でした。いくら大きい足をしていても、小さい靴が配られれば、その小さい靴に大きな足を履かなければならない。その足はいかに苦痛だったでしょうか。その例えが、朝鮮民衆の生活の一環だと思えば、決して間違いでありません。
いくら神道を教え込まれ、神社参拝をさせられても、神社参拝を拒否して、監獄に行って、刑務所に行った人は随分います。神社参拝、天照大神、天皇という存在は、植民地の人々にとっては恐怖の的でもあります。が、その中でも断固として、命を懸けて神社参拝を拒否した朝鮮の指導者たちに対して、私はいまだに敬意を払っております。

   日本の植民地支配-略奪
 朝鮮民衆はあらゆる農産物、あらゆる私有物、畑、山、全部取り上げられました。我が国古いしきたりは、土地の証文を持っていますと、それで登記が済んだものと同じような効き目をしました。しかし朝鮮総督府令が施行されて、いわゆる朝鮮土地改正例が公布され、何月何日までに申告しないものはすべて国有に帰するという法律を作りました。
 純真素朴な我が祖先たちは、自分の田畑の証文を持っていればそれは自分のものだと思い込んでいましたが、いつの間にか法律という名の下で、全部取り上げられました。申告するすべも知らない。申告しようとしても、非常に難しい申告の制度を出しておりまして、時効が過ぎたら政府のものになっている。それで朝鮮総督府のものになりました。
 こうした中で小作制度は非常に苛烈なものでした。七・三ですね。七を挙げて三を自分が取ると。それでは農作物の労賃もありません。それでもないよりはましかというので農作物を政府に上納したのであります。ところが戦争が始まってしまうと、いつの間にか百パーセントを政府に供出という名目のもとに全部渡せと。後は政府から配給する配給米を買え。そこで商売したのが、朝鮮総督府の悪辣な食料政策でありました。
 当時の朝鮮の食糧事情はどん底それ以下のものでありまして、もし農作物を一握りでもかくまったことが発見されると、戦時統制令違反ということで、すぐ懲役ということになります。むしろ外で飢えているより、刑務所に入ってご飯を食べて、麦飯ですけれども、三度も飯にありつける方がいいじゃないかと言う人たちもいました。
 当時お酒も全部配給制で、朝鮮に住んでいた日本人が握っていましたが、小さいこどもたちがそのお酒づくりの粕をもらってきて飢えをしのいだりもしました。そのためにこどもたちが酔って道を歩いているという、うそのような話も私たちは見てきました。それが当時の朝鮮の生活でした。
 また文化財にしても、あらゆる名のある文化財、世界の歴史に残るような朝鮮の美術品はほとんどが東京にあります。「日韓友好」とか、「韓日友好」とかいうものの、その裏ではいまだに我が国の古美術品を独り占めしている。朝鮮コレクションの中で一番いいものはほとんどが日本人が所有していることは、皆さんご存知のことと思います。

   日本の植民地支配-強制連行
 そして日米戦争が始まると、日本人の徴兵だけでは足りないというので、頑強な朝鮮の青年たちを引っ張り出すのに志願兵制度というものを作りました。志願兵制度といってもその実は強制なんです。それで、朝鮮軍二四部隊に入所をさせて、一年間みっちりとたたき上げて、いわゆる生半可な日本人に仕立て上げて、前線へ前線へと送り込まれました。その数二十万。いまだに買えって来ない人十万。
 戦争が段々苛烈になると、当時日本では障害者を除いてほとんどが軍隊へ行きました。その後釜に入れたのが、我々朝鮮出身の労働者であります。最初は日本の内務省が反対しました。あまりにも酷いことをしたので、日本国内に朝鮮人労働者を入れるといつ暴動が起こるかわからないというのが内務省の方針でした。ところが背に腹はかえられないというので、どんどん、どんどんと送り込ませました。その数百二十万。四十万は死亡、虐殺されて帰っていません。それは、日本の各種統計から割り出した数字でもあります。
 このようにやっておいて、日本という国は、いまだに一言も韓国人犠牲者、朝鮮の人に対して謝罪をしていません。遺憾だということだけは言っております。我々が希望するのは言葉の修飾をしないで、心底から何を悪さをしたのか、その悪さの実証を挙げて、すみませんでしたと一言いえばそれで済むんです。

   強制連行で殺された兄
 私の兄は村で漢字を教える支部長でしたが、徴用で一番最初に指名徴用されました。兄を狙った理由が、いわゆる反日思想を持ったその家族への見せしめでした。
 私の姓は金と申します。韓国において、朝鮮において、金氏というのは新羅の金、それから朝鮮李朝二〇七年間の李氏王下、李氏と金氏は由緒があるといわれております。新羅金氏の子孫で、父の話によりますと、新羅最後の王様の子孫だということで、家柄を非常に大切にしました。その継承者でもある、子孫でもある兄に日本の戸籍制度は適用し辛いということで、施行された戸籍制度に兄を抜いて応じました。兄だけはどうしても日本の国民にしたくない。それが発覚したのであります。
 それで、これはけしからんと兄に一番最初に徴用令状がきました。父は非常に嘆き悲しみ、私が替わりに徴用に応じるという形で行ったのが、川崎の日本鋼管株式会社川崎製鉄所であります。
 ところが後でわかったことなんですけれども、私が兄の身代わりとして発って一ヶ月後に、日本の官憲は私の兄を炭鉱に送り込みました。それは北海道の新夕張北海道炭鉱汽船株式会社というところです。
 後で私が夕張に何度か行って調べたことなんですけれども、ノルマとして石炭何トンを掘り出さなければ寝られない。たこ部屋同然の部屋に収容されて、握り飯ひとかけら。着る服もなくふんどし一本で仕事をさせられて、一年数か月の後に兄はそこで死にました。
 兄が死んだのが、一九四五年一一月四日であります。終戦後であります。なぜ兄は終戦後に死んだのか。頼る人もなく、終戦のどさくさで薬もなく、病院で犬死にしたも同然だという話を聞いたとたんに、私は大きなショックを受けました。
 この実態を明かさずにはおかないと。戦後問題に私が身を投じたのはそうしたことからなんです。
 それから帰りまして、北は小樽、夕張、札幌、南は沖縄、鹿児島。日本全国あらゆるところを探し歩き、遺骨を集めました。そして、兄の遺骨も探しに何回も行きましたけれども、とうとう探しきれずに、いまだに心の底に一抹の悔しみを覚えております。
 「必ず兄の遺骨を探し出して、立派な墓を作ってあげるように」との母の遺言を私はいまだに実現しておりません。後幾ばくもない命なんですけれども、命あるうちに必ず、兄の骨を探し出して、お墓を作って、金なにがしの家系であることを大きく書いて、子孫に伝えたい。これが私の願いであります。

 
by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:09 | 関連1. 一次訴訟 金景錫さん


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