「我が人生 我が道」金景錫(中)
【「一冊の本」】
夜はなかなか眠れないので私はよく本を読みました。川崎駅の有隣堂という、今は駅の地下に移動している書店ですが、そこに行った時のことです。何気なく見ていると『半島技能工の育成』という本がある。手に取ってパラパラとめくってみたら、私たち自身のことが出ているんです。
国民勤労研究所というところが、「半島労務者の取り扱い」について日本鋼管の高浜労務次長に聞いたものでした。確か二十銭だったか記憶は定かではないが、買ってきて、じっくり読んで見ました。一九四三年三月、連行から半年ぐらいたった頃でした。
そこにはこんなことが書いてありました。「訓練工の賃金は内地工同様、賃金統制令により何ら差別はしていない」「給料を取ると収入の七、八割を送金し後は小遣いに困る者、靴とかワイシャツとか高価なものを買って小遣いがない者もいる」「収入を管理する意味と、逃亡を防ぐ意味で、手取りを二十円ぐらいにして、残りは強制的に貯金させろという案も出ている」といったデマや詭弁。
「彼らの態度で一番目立つのは常にだらんだらんしていて、いかにも怠惰らしく見える」「同年令の内地工に比し、機能方面が非常に劣るように見受けられる」。さらに、「食わせれば際限なく食べてお腹をこわす者が多いので、多少はご飯が足りないという連中もあるが、それも慣れの問題」「湯茶は内地人の倍以上は飲む。特に、夏場の作業の時は猛烈で、いくらとめても飲み、結局はお腹をこわす」といった調子でした。
もう頭にきちゃって。民族侮辱的な数々、あれほど会社に尽くして一生懸命働いてきたのに、何でそんなことをいわれなければならないのか。韓国での日本人巡査や日本人教師への怒り同様に、日本という国に対して、日本人に対して批判が生まれました。
私は、各寮の主だった幹部に声をかけ集まってもらった。本は鶴見や扇町の寮にも広がり回し読みされました。「こんなばかなことがあるか」とみんな怒りました。誰からともなく、会社の正門の横にある請負の須田町食堂に集まっては、本のことを話すようになりました。
それから一か月、食堂従業員とある訓練工の間のいさかいをきっかけに、多くの朝鮮人労働者が食堂に詰めかけました。「会社は謝れ」「帰国させろ」と言って、約五百人が集まりました。
【「雨の日のストライキ」】
一九四三年四月十日。その日は雨でした。須田町食堂に朝鮮人労働者の半数以上の五百人が集まると、会社側はなだめようとしたのか懐柔に出たのか、たくさんの食物を出してきました。おかずにいい物があったし、何度食べても文句は言われなかった。みんなはこれ幸いとばかりに、あきれるほど食べました。闘争の現場というより食べる現場でした。
演説したり、独立運動の話をする人はいません。みんなが「侮辱されてはいられない」「家に帰ろう」などと話していました。
「現場に行かずになんでここに集まっているんだ」と言われ、私は「誰がわれわれにそうさせたのだ。責任者を、高濱次長を呼んでこい」と答えた。私の指導員であった藤倉沖房がとんで来て「金城ちょっと来い。現場に戻れ」と言ったが、ききません。夕方になっていったん寮に戻り、翌日また食堂に集まりました。
その日も雨でした。食堂いっぱいに座り込みました。夜勤の者もかけつけてきて工場生産はストップしました。警察や憲兵もやってきた。顎ひもをしめ軍刀・拳銃をぶら下げた半マント姿の憲兵。十文字に割って入り、「絶対となりの者と話すな」と言ったが、ききません。韓国ではうれしいときも、悲しいときも、よく『アリラン』を歌います。みんなで歌いました。
朝鮮人の議員のパクチュングンも来て「俺はパクだ。おまえたちこんなことしたらだめだ」と言った。私たちは意気軒昂で若い血がたぎっている。「なんだこの野郎」といってたたき帰しました。「最初の約束はこんなはずではなかった」「謝れ」「食事を改善せよ」などと口々に叫びました。
私は、このまま騒いでいるだけじゃしようがないと思い、手を挙げて憲兵の指揮者に者を申しました。「本に書いてあったことをまず謝れ。食事を改善せよ。この間仕事についていないが、出勤したことにせよ」といった条件を出しました。
私は同盟罷業(ストライキ)とかをまったく知りません。前日に「日本国体研究所」と名乗る人がやってきて私にコーチして帰りました。なんでも朝鮮人の大学生の集まりとかで、うわさを聞いて東京からやってきたとのこと。秘密裏に会いました。「何々を要求せよ。最後まで絶対がんばれ」とか言っていました。彼らに会ったのはそれっきりです。
憲兵は私に、「言うことはそれだけか」と聞きました。「そうです」と答えると、「じゃ、おまえちょっとこっちへ来い」と。大型パイプを作っている第二製管の事務所に連れて行かれました。
【「弾圧」】
連れていかれた事務所では特高(特別高等警察)が「誰がお前たちをそうおだてたのか、正直に言え」と背後組織を探ったり、「お前の田舎はどこか、兄弟は何人か」と根掘り葉掘り聞いてきました。私は「今はそんなのんきなことを言っている場合ではない。早く現場に戻って、犠牲者がでないように」と言い返しましたが、殴る蹴るが始まりました。
ちょうどその頃食堂では、指導員の藤倉が「私に責任がある」と言ってみんなの前で、自分の指を包丁で切ってしまった。やくざ世界の詫びってやつでしょうか。血がぱっと流れ出るのを見て若い人らは興奮し、「死んでも動かない。金城はどこに行ったのか」と騒いだらしい。
年のいった相当階級の高い特高だったと思います。剣道の竹刀で私を叩いた。打たれた瞬間、竹が割れるようになって肉をはさむものだからすごく痛い。頭は殴られてこぶだらけ。両手は後ろ手にされ紐で吊されました。細い紐だから食い込んできて相当痛い。人間の重さでちぎれて死ぬのではないかと思ったほどです。
外は雨。事務所の床も出入りする警察や憲兵の靴ですっかり濡れていました。そこに転がされては蹴られる。犬ころのように扱われました。人間、こんなに殴られても死なないものかと感心するぐらい殴られました。気を失いました。
私と同じ寮に金善在という先輩がいます。彼は、町に出るときは先をとがらせた長いドライバーを持っていき、家の壁を「なんだこの野郎」と言っては突いて歩いていました。私は、一般住民には迷惑をかけるなといっていたのですが。その彼と趙昌基の二人はこの時行方不明になりました。
『特高月報』によれば、四月十二日に「首謀者十五名を検挙」とありますが、五十名ぐらいはいたと思います。月報に、「金善在はパンフレット問題発生せるを以て好機至れりとなし、之を民族独立の観点より指導した」と記されています。行動の面では私でしたが、教養の面では一枚も二枚も優れた人でした。
後に、立教大学の山田昭次先生が横浜地方検察庁に金善在の消息を調査依頼したが分からず、春川(チュンチョン)にずっと住んでいる弟さんに聞いても日本に行ったきり帰っていないとのことでした。当時、日本鋼管の運河で死体を見つけたという話がありました。彼が連れて行かれた警察と運河はつながっているので彼ではないかと思っています。
山田先生が聞き取りのためやっと弟さんに会えたのですが、みやげを渡そうとしたところ「日本人のものはいらない」と言って絶対受け取りませんでした。
【「釈放」】
どのくらい時間が経ったでしょうか。気がついてみると床に転がされていました。話し声がするので聞いていると、警察らしき者が「こいつはもうだめだから出してやれ」と言っていた。会社の職員らしき者は「会社で死なれると困るからそちらで始末してくれ」とやり合っていたようです。
その頃現場の方では交渉が始まっていた。会社は「どうしたらおまえたちは解散するのか」と聞いた。工場の炉は常時動かしていないと中の鉄が固まって壊れてしまう。日本人は軍隊に行っていて、クレーンも製鋼も製管もほとんど私たちが現場を担っていたので、会社はこのままでは大変だと思ったらしい。
みんなは「金城はどうした。殺されてるんじゃないか。金城を出したら無条件に現場に復帰する」と要求した。そこで会社は私を釈放しました。釈放前にまた死ぬほど殴られました。友達が飛んできて私を担ぎ食堂から二キロぐらいある寮まで連れて帰ってくれました。
肩甲骨を骨折し、腕は脱臼、身体中がむくんでいました。鎮痛剤などなく、湿布でしのいだ。中には勇敢な者がいて、寮の指導員に「病院に行かせろ」と言った。指導員は「非国民は病院に行かせるわけにはいかない」と拒み、治療は受けられませんでした。現場組長の吉田梅蔵はかわいそうにと思ってか、腕が使えない私に軽い仕事をさせました。午前中現場に行って午後からぶらぶらする毎日でした。警察はその後もしょっちゅう顔を出していました。
スト以来、会社は少し変わりました。『半島技能工の育成』に載った高浜労務次長はいなくなり、朝鮮人労働者はあまり殴られなくなった。食事もいくらか量が増えた。検挙されていた約五十人は二人を除いて帰ってきた。会社の方も、人手不足なので帰してくれと警察に頼んだようです。
私が病院に行ったのは六か月後。日本鋼管病院で手術を受けたが手遅れで、元の身体には戻りませんでした。大手術だったので、痛いし、熱は出るし、喉は渇く。それで氷のうを破って中の氷を取り出して食べました。なんとおいしいこと。病院の備品のゴム製品を破ったのですから普通だったら大変なことになります。
しかし、もう一つの氷のうを破って私の口に氷を入れてくる人がいました。看護婦で二歳年上の吉田いくさんという方でした。吉田さんは私にこう言いました。「あんたは死んではいけない人なんだ」。
【「ある別れ」】
看護婦の吉田さんとは、入院する前から面識がありました。それで私がなぜ入院したのか事情も知っていた。退院後、通院していた時にもところてんやせんべいをくれたり、良くしてくれました。私ばかりでなく朝鮮人に差別なく親切にしてくれた。あの時代としてはめずらしく理解のある人でしたね。
退院してからもぶらぶらする生活。私はもう日本にいてもしようがないと思い、帰国を決意しました。指導員は「帰さない」という。「どうしても帰さないなら自殺する」と言ったもんだから、これは大変なことになると思ったらしく、労務係から間もなく帰郷証明書が発行されました。この証明がないと、下関までの切符が買えません。しかし帰国の旅費はもらえず、預金も返してもらえませんでした。
「おまえが帰ったらわれわれはどうなる」という友達に、「身体がこうなので何もできない、みんなの邪魔になるから帰してくれ」と頼みました。友達は三、四百円の餞別を集めてくれた。国に帰ってからもしばらくは生活ができるぐらいの大金です。どぶろくを買ってきて寮で送別会。みんなでアリランを歌いました。
寮を出て駅に向かうには、小田踏み切りを通らねばなりません。そこを渡ったとき、万感胸に迫ってきました。「これで日本とさよならか。今度はいつの日かわからないが、絶対無意味には帰ってこないぞ」。
東京駅には、ひとり吉田さんが見送りに来てくれました。出発の前日になって「明日帰るから」と言い出したところ、「私も行く」と。吉田さんには事前に友達が連絡していたようです。当時、強制連行の朝鮮人が日本人女性と付き合うなんて、とんでもないこと。お互い純真だったので友達からはうらやましく思われていました。
夜出発の汽車まで長い時間がありました。いろんな出来事が思い出され、胸が詰まってあまり話ができませんでした。時間が迫ると吉田さんは私に駅弁を持たせようと走り回ってくれました。泣かれました。ホームの柱の影からしんみりと見送ってくれました。
吉田さんには国に帰ってから手紙を出しませんでした。十八歳の私でしたから、日本でこんなにまでやられたとの感情の方が強く、女性であろうと男性であろうと日本人は憎悪の的で信じ切れなかった。解放後は生活に追われ、また朝鮮戦争が始まり、軍事クーデターが起こって日本に行ける状態になかった。気にはなりながらも、時がどんどんたっていきました。
夜はなかなか眠れないので私はよく本を読みました。川崎駅の有隣堂という、今は駅の地下に移動している書店ですが、そこに行った時のことです。何気なく見ていると『半島技能工の育成』という本がある。手に取ってパラパラとめくってみたら、私たち自身のことが出ているんです。
国民勤労研究所というところが、「半島労務者の取り扱い」について日本鋼管の高浜労務次長に聞いたものでした。確か二十銭だったか記憶は定かではないが、買ってきて、じっくり読んで見ました。一九四三年三月、連行から半年ぐらいたった頃でした。
そこにはこんなことが書いてありました。「訓練工の賃金は内地工同様、賃金統制令により何ら差別はしていない」「給料を取ると収入の七、八割を送金し後は小遣いに困る者、靴とかワイシャツとか高価なものを買って小遣いがない者もいる」「収入を管理する意味と、逃亡を防ぐ意味で、手取りを二十円ぐらいにして、残りは強制的に貯金させろという案も出ている」といったデマや詭弁。
「彼らの態度で一番目立つのは常にだらんだらんしていて、いかにも怠惰らしく見える」「同年令の内地工に比し、機能方面が非常に劣るように見受けられる」。さらに、「食わせれば際限なく食べてお腹をこわす者が多いので、多少はご飯が足りないという連中もあるが、それも慣れの問題」「湯茶は内地人の倍以上は飲む。特に、夏場の作業の時は猛烈で、いくらとめても飲み、結局はお腹をこわす」といった調子でした。
もう頭にきちゃって。民族侮辱的な数々、あれほど会社に尽くして一生懸命働いてきたのに、何でそんなことをいわれなければならないのか。韓国での日本人巡査や日本人教師への怒り同様に、日本という国に対して、日本人に対して批判が生まれました。
私は、各寮の主だった幹部に声をかけ集まってもらった。本は鶴見や扇町の寮にも広がり回し読みされました。「こんなばかなことがあるか」とみんな怒りました。誰からともなく、会社の正門の横にある請負の須田町食堂に集まっては、本のことを話すようになりました。
それから一か月、食堂従業員とある訓練工の間のいさかいをきっかけに、多くの朝鮮人労働者が食堂に詰めかけました。「会社は謝れ」「帰国させろ」と言って、約五百人が集まりました。
【「雨の日のストライキ」】
一九四三年四月十日。その日は雨でした。須田町食堂に朝鮮人労働者の半数以上の五百人が集まると、会社側はなだめようとしたのか懐柔に出たのか、たくさんの食物を出してきました。おかずにいい物があったし、何度食べても文句は言われなかった。みんなはこれ幸いとばかりに、あきれるほど食べました。闘争の現場というより食べる現場でした。
演説したり、独立運動の話をする人はいません。みんなが「侮辱されてはいられない」「家に帰ろう」などと話していました。
「現場に行かずになんでここに集まっているんだ」と言われ、私は「誰がわれわれにそうさせたのだ。責任者を、高濱次長を呼んでこい」と答えた。私の指導員であった藤倉沖房がとんで来て「金城ちょっと来い。現場に戻れ」と言ったが、ききません。夕方になっていったん寮に戻り、翌日また食堂に集まりました。
その日も雨でした。食堂いっぱいに座り込みました。夜勤の者もかけつけてきて工場生産はストップしました。警察や憲兵もやってきた。顎ひもをしめ軍刀・拳銃をぶら下げた半マント姿の憲兵。十文字に割って入り、「絶対となりの者と話すな」と言ったが、ききません。韓国ではうれしいときも、悲しいときも、よく『アリラン』を歌います。みんなで歌いました。
朝鮮人の議員のパクチュングンも来て「俺はパクだ。おまえたちこんなことしたらだめだ」と言った。私たちは意気軒昂で若い血がたぎっている。「なんだこの野郎」といってたたき帰しました。「最初の約束はこんなはずではなかった」「謝れ」「食事を改善せよ」などと口々に叫びました。
私は、このまま騒いでいるだけじゃしようがないと思い、手を挙げて憲兵の指揮者に者を申しました。「本に書いてあったことをまず謝れ。食事を改善せよ。この間仕事についていないが、出勤したことにせよ」といった条件を出しました。
私は同盟罷業(ストライキ)とかをまったく知りません。前日に「日本国体研究所」と名乗る人がやってきて私にコーチして帰りました。なんでも朝鮮人の大学生の集まりとかで、うわさを聞いて東京からやってきたとのこと。秘密裏に会いました。「何々を要求せよ。最後まで絶対がんばれ」とか言っていました。彼らに会ったのはそれっきりです。
憲兵は私に、「言うことはそれだけか」と聞きました。「そうです」と答えると、「じゃ、おまえちょっとこっちへ来い」と。大型パイプを作っている第二製管の事務所に連れて行かれました。
【「弾圧」】
連れていかれた事務所では特高(特別高等警察)が「誰がお前たちをそうおだてたのか、正直に言え」と背後組織を探ったり、「お前の田舎はどこか、兄弟は何人か」と根掘り葉掘り聞いてきました。私は「今はそんなのんきなことを言っている場合ではない。早く現場に戻って、犠牲者がでないように」と言い返しましたが、殴る蹴るが始まりました。
ちょうどその頃食堂では、指導員の藤倉が「私に責任がある」と言ってみんなの前で、自分の指を包丁で切ってしまった。やくざ世界の詫びってやつでしょうか。血がぱっと流れ出るのを見て若い人らは興奮し、「死んでも動かない。金城はどこに行ったのか」と騒いだらしい。
年のいった相当階級の高い特高だったと思います。剣道の竹刀で私を叩いた。打たれた瞬間、竹が割れるようになって肉をはさむものだからすごく痛い。頭は殴られてこぶだらけ。両手は後ろ手にされ紐で吊されました。細い紐だから食い込んできて相当痛い。人間の重さでちぎれて死ぬのではないかと思ったほどです。
外は雨。事務所の床も出入りする警察や憲兵の靴ですっかり濡れていました。そこに転がされては蹴られる。犬ころのように扱われました。人間、こんなに殴られても死なないものかと感心するぐらい殴られました。気を失いました。
私と同じ寮に金善在という先輩がいます。彼は、町に出るときは先をとがらせた長いドライバーを持っていき、家の壁を「なんだこの野郎」と言っては突いて歩いていました。私は、一般住民には迷惑をかけるなといっていたのですが。その彼と趙昌基の二人はこの時行方不明になりました。
『特高月報』によれば、四月十二日に「首謀者十五名を検挙」とありますが、五十名ぐらいはいたと思います。月報に、「金善在はパンフレット問題発生せるを以て好機至れりとなし、之を民族独立の観点より指導した」と記されています。行動の面では私でしたが、教養の面では一枚も二枚も優れた人でした。
後に、立教大学の山田昭次先生が横浜地方検察庁に金善在の消息を調査依頼したが分からず、春川(チュンチョン)にずっと住んでいる弟さんに聞いても日本に行ったきり帰っていないとのことでした。当時、日本鋼管の運河で死体を見つけたという話がありました。彼が連れて行かれた警察と運河はつながっているので彼ではないかと思っています。
山田先生が聞き取りのためやっと弟さんに会えたのですが、みやげを渡そうとしたところ「日本人のものはいらない」と言って絶対受け取りませんでした。
【「釈放」】
どのくらい時間が経ったでしょうか。気がついてみると床に転がされていました。話し声がするので聞いていると、警察らしき者が「こいつはもうだめだから出してやれ」と言っていた。会社の職員らしき者は「会社で死なれると困るからそちらで始末してくれ」とやり合っていたようです。
その頃現場の方では交渉が始まっていた。会社は「どうしたらおまえたちは解散するのか」と聞いた。工場の炉は常時動かしていないと中の鉄が固まって壊れてしまう。日本人は軍隊に行っていて、クレーンも製鋼も製管もほとんど私たちが現場を担っていたので、会社はこのままでは大変だと思ったらしい。
みんなは「金城はどうした。殺されてるんじゃないか。金城を出したら無条件に現場に復帰する」と要求した。そこで会社は私を釈放しました。釈放前にまた死ぬほど殴られました。友達が飛んできて私を担ぎ食堂から二キロぐらいある寮まで連れて帰ってくれました。
肩甲骨を骨折し、腕は脱臼、身体中がむくんでいました。鎮痛剤などなく、湿布でしのいだ。中には勇敢な者がいて、寮の指導員に「病院に行かせろ」と言った。指導員は「非国民は病院に行かせるわけにはいかない」と拒み、治療は受けられませんでした。現場組長の吉田梅蔵はかわいそうにと思ってか、腕が使えない私に軽い仕事をさせました。午前中現場に行って午後からぶらぶらする毎日でした。警察はその後もしょっちゅう顔を出していました。
スト以来、会社は少し変わりました。『半島技能工の育成』に載った高浜労務次長はいなくなり、朝鮮人労働者はあまり殴られなくなった。食事もいくらか量が増えた。検挙されていた約五十人は二人を除いて帰ってきた。会社の方も、人手不足なので帰してくれと警察に頼んだようです。
私が病院に行ったのは六か月後。日本鋼管病院で手術を受けたが手遅れで、元の身体には戻りませんでした。大手術だったので、痛いし、熱は出るし、喉は渇く。それで氷のうを破って中の氷を取り出して食べました。なんとおいしいこと。病院の備品のゴム製品を破ったのですから普通だったら大変なことになります。
しかし、もう一つの氷のうを破って私の口に氷を入れてくる人がいました。看護婦で二歳年上の吉田いくさんという方でした。吉田さんは私にこう言いました。「あんたは死んではいけない人なんだ」。
【「ある別れ」】
看護婦の吉田さんとは、入院する前から面識がありました。それで私がなぜ入院したのか事情も知っていた。退院後、通院していた時にもところてんやせんべいをくれたり、良くしてくれました。私ばかりでなく朝鮮人に差別なく親切にしてくれた。あの時代としてはめずらしく理解のある人でしたね。
退院してからもぶらぶらする生活。私はもう日本にいてもしようがないと思い、帰国を決意しました。指導員は「帰さない」という。「どうしても帰さないなら自殺する」と言ったもんだから、これは大変なことになると思ったらしく、労務係から間もなく帰郷証明書が発行されました。この証明がないと、下関までの切符が買えません。しかし帰国の旅費はもらえず、預金も返してもらえませんでした。
「おまえが帰ったらわれわれはどうなる」という友達に、「身体がこうなので何もできない、みんなの邪魔になるから帰してくれ」と頼みました。友達は三、四百円の餞別を集めてくれた。国に帰ってからもしばらくは生活ができるぐらいの大金です。どぶろくを買ってきて寮で送別会。みんなでアリランを歌いました。
寮を出て駅に向かうには、小田踏み切りを通らねばなりません。そこを渡ったとき、万感胸に迫ってきました。「これで日本とさよならか。今度はいつの日かわからないが、絶対無意味には帰ってこないぞ」。
東京駅には、ひとり吉田さんが見送りに来てくれました。出発の前日になって「明日帰るから」と言い出したところ、「私も行く」と。吉田さんには事前に友達が連絡していたようです。当時、強制連行の朝鮮人が日本人女性と付き合うなんて、とんでもないこと。お互い純真だったので友達からはうらやましく思われていました。
夜出発の汽車まで長い時間がありました。いろんな出来事が思い出され、胸が詰まってあまり話ができませんでした。時間が迫ると吉田さんは私に駅弁を持たせようと走り回ってくれました。泣かれました。ホームの柱の影からしんみりと見送ってくれました。
吉田さんには国に帰ってから手紙を出しませんでした。十八歳の私でしたから、日本でこんなにまでやられたとの感情の方が強く、女性であろうと男性であろうと日本人は憎悪の的で信じ切れなかった。解放後は生活に追われ、また朝鮮戦争が始まり、軍事クーデターが起こって日本に行ける状態になかった。気にはなりながらも、時がどんどんたっていきました。
by fujikoshisosho
| 2008-07-12 14:16
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