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「我が人生 我が道」金景錫(下)

【「帰国」】
 日本を去って以来、吉田いくさんに再び会ったは、日本鋼管訴訟の証拠探しで一九九二年に来日した時でした。NHKの若い女性プロデューサーが、彼女の行方を探し出してくれた。私は「助けてもらったお礼をせねば」と入院先に花を持って訪ねました。
 吉田さんは脳梗塞で記憶を失っておられ、娘さんと話ができました。聞くところによれば、吉田さんは日本鋼管病院の看護婦長になり、中国人と結婚し満期退職されたそうです。国際的な幅の広い人だったんですね。
 娘さんは私に向かってこう話されました。「お母さんは『その昔、朝鮮人の方と深い恋仲になったことがある』と言っていました」。「ああ、あれが恋だったのか」と思いました。
 私はあの世に行って閻魔(えんま)大王に「おまえ、何を悪いことをしたのか」と詰め寄られたら、吉田さんの純真な気持ちを踏みにじったことだと答えるでしょう。彼女の真実の胸の内を聞かずに東京駅で別れたことを、今になっても後悔しています。
 帰国したのは一九四四年の秋口でした。下関から釜山に渡り、釜山からは汽車で大邸(テグ)に向かいました。沿線の家が低く地べたに張りつくように見えたのが印象的でした。日本で見ていた石垣のあるきれいな家とわらぶき屋根の土塀の家とはえらく違います。
 日本人に比べて、国民生活は何故こんなに貧しいのか。正常な体で行って、帰りは腕がぶらぶら。いつまでも殴られっぱなしでいいのか、この仕返しはいつかせねばと、一種の復讐心が燃えてきました。
 駅の改札口には憲兵と警察がいて尋問を受けました。そこから木炭自動車に乗って約三時間。連絡しないで帰ったので、父母はいませんでした。
 会ったときは突然のことで驚かれた。お母さんは「どうして帰ってきたのか、事件でも起こしたのか」と心配した。「会社でけがをした。やるべきことはちゃんとやってきたから」と言って安心させました。ところが、日本の特別高等警察にあたる高等係の朝鮮人刑事が私に目をつけ、夜中に家にやってきては塀を乗り越えて聞き耳を立てる。両親は「何かやったな」と感づいたようですが、それ以上追及しませんでした。
 村の人々は「やられたな、苦労したな」と見てくれたが、警察の監視がつき、「内地帰りの札付き」というレッテルがはられ、いづらい雰囲気ではありました。

【「解放」】
 私は、家に帰って初めて兄貴が強制連行されたことを知りました。私が日本に行ってわずか一か月後、北海道・夕張の炭坑に連行されたのです。
 家の代を兄貴に継がせるため私が身代わりになって行ったのに、これでは意味がない。兄貴を連れて行かないと約束していたのに、卑怯千万だ。面長の川村仲太郎を憎みました。
 旧正月になると、韓国でもおもちを作って食べます。当時は電気も練炭もなかったので、薪をくべてもちを焼きました。しかし総督府は、正月は日本人式に太陽暦でやれ、旧正月は認められないと。刑事は、薪を抜き取ってそれをもちの中に突っ込み、食べられないようにしました。
 刑事にいったん目を付けられると、留置場にぶち込まれるか、労働現場に行かされるか、どちらかです。「内地帰りの不逞鮮人」のレッテルがはられ、刑事につきまとわれる中、労働現場行きを断れない状況でした。
 刑事も村役場も「おまえ、うちで遊んでいてもしようがないから釜山の勤労報国隊で働け」と。腕が不自由なので不安だったが、家にいても食べるものもなく迷惑をかけるため、一九四五年の三月頃でしたが、釜山に行きました。
 釜山の第二埠頭で、軍隊の衣服や皮製品など船から降ろされた軍需物資を倉庫に保管したり汽車に積み込む仕事です。力仕事はできないが日本語が達者ということで、いつのまにか千人以上の労働者の責任者をやらされました。
 そうこうしているうちに八月十五日を迎えた。解放されたと聞いたが、日本はあれほど執念深い国だから戦争に負けるはずがない、デマだと思いました。だから当日も翌日も仕事をやった。町のどこそこで日本人巡査・兵士が殴られたという噂も飛び交ったが、「そんなことを言うとひどい目にあうから絶対口にするな」と労働者に指示しました。
 解放を実感したのは翌々日になってからです。軍隊が規律に反して襟をはだけ、戦闘帽の顎ひもを取ったりしている。釜山港には、日本兵がわれ先にと、後から後から押し寄せてくる。それを見て、日本が降伏したのだと思いました。
 命令系統はなくなり仕事もなくなった。食料はあったので、それをみんなで食べ、帰しました。それでもまだ半信半疑で昌寧(チャンニョン)に帰ったのですが、学校長の亀崎定次郎が真っ先に逃げ、新聞社支局の者も荷物を持って逃げるのを見て、これで解放が間違いないと思いました。

【「兄貴の死」】
 解放されて村の人が一番最初にぶっ壊したのは神社でした。いつも朝夕連れて行かれ参拝させられた所でした。「日の丸」は韓国旗に塗り変えました。「日の丸」の赤い丸の下の部分を青く染め、周囲に線を入れるとちょうど韓国旗になる。日本兵は怒ったが、私はざま見ろと思いました。
 解放されるや、左翼も右翼も威張りだす。そんな混乱の中に、若い人たちが巻き込まれました。それぞれが自称なになにという部隊を作って論じ合っていた。仲間がそっちだからと、左翼陣営に行ったものは後にひどい目に遭います。
 私は、政治的に訓練を受けたこともない人間だったし、内地帰りという周囲の偏見、日本に協力したという自己嫌悪もあって関わりませんでした。また、生活に追われていたため活発な動きはできませんでした。
 両親は、朝に夕に兄貴の帰りを待っていました。日本からヤミ船に乗った村人が順次帰ってきます。それでもなかなか帰ってきません。お母さんは、夕方になると表に出て帰りを待つようになりました。
 寒い冬のある日、兄貴と一緒の炭坑にいたという隣村の人たちが紙切れを一枚持って来て「死にました」と告げました。それでも両親は信じません。お母さんは私に「おまえの兄は学があるし、利口だから必ず帰ってくる」と言います。
 私は紙切れを見て、確かに死んだなと思いました。「こんなことがあってよいものか。日本人は人間じゃない」と、怒りがわいてきました。
 兄貴は一九四五年十一月四日、北海道の病院で死にました。書生だった兄貴は、筆より重いものを持ったことがない人です。それが、ふんどし一枚で地下何百メートルの炭鉱に入れられて強制労働。後に、日本に帰化した経理担当者(当時)から聞いた話ですが、三井の子会社だった北炭夕張は、新鉱を掘るときは石炭脈が出るまでやらせた。そのためノルマが課され、達成しないと地上に出られなかったらしい。病院といっても、薬も食べるものもなく、見捨てられたのでしょう。
 兄貴は連行された時、すでに結婚していました。たしか、結婚後間もない三、四か月の頃です。兄嫁は、恐い義父の下で尽くしながら、ずっと兄貴の帰りを待っていました。私は兄嫁をふびんに思い、何度か再婚をさせようと手をつくしましたが、「とんでもない」と断られました。

【「親不孝」】
 お母さんは兄貴の死を伝えられてから酒を飲むようになりました。当時、中年の女性、それも母親が酒を飲むというのは一種の事件です。苦しい胸のうちを吐き出すためだったのでしょう。酒を飲んではよく兄貴のことを話し、「いつかはきっと帰ってくるだろう」と言っていました。
 そのうち土俗の信仰をもつようになった。キリスト教や儒教とは違って木や石に祈ります。村外れの山に大きな木がありました。そこに行っては兄貴の帰りを祈っていました。何かにすがりつかないと、とてもたまらないといった心境だったのでしょう。
 父さんは、猛烈な酒浸りになりました。ただひたすら長男の帰りを待っていた父さんにしてみれば、ほかの四人の子どもより、一人の長男の方が大切だった。私はいたたまれなくなった。どうせならソウルに行って一旗揚げよう。一九四六年の春のことでした。
 解放後、ソウルには何百という団体があちこちにできた。当初は朝鮮警備隊に入ろうとしたのですが、腕がだめで、青年団に入りました。大韓青年団といって、今思うに、政治的には自由党の院外団体みたいなところだったと思います。
 そのうち朝鮮動乱が始まった。家はどうなったろうかと、ふと思い出した。帰ろうと思い、「青年団を辞めます」と言ったら、周りから「おまえは裏切るのか」と言わんばかりに怒られた。しかし、団長は「それじゃ、家の様子を見に帰ってこい」と言ってくれました。
 昌寧(チャンニョン)の自宅に帰ってみると、誰もおらず、大邸(テグ)の永川(ヨンチョン)に引っ越していました。
 お父さんは、お酒がたたったのでしょうか、動乱が起きてすぐ亡くなったようです。死に目に会えませんでした。
 それでもお母さんは長生きして、一九八九年、八十九歳で亡くなりました。父さんの執念を引き継ぎ、兄貴の帰りをずっと待って生き延びたのだと思います。
 私は夜中によく夢を見ました。韓国には、「上の歯が抜ける夢は、父母の死を意味する」ということわざがある。戒厳令の時代は夜十二時から午前五時まで通行禁止なので、規制が解かれる時間まで待って、「だいじょうぶか」とすぐ飛んで行ったものです。
 私はお母さんには親不孝をしたと思っています。兄貴が亡くなったと分かってからは私が家に定着すべきだったのに、旅がらす根性というのでしょうか、飛び出す方が好きでしたから。

【「朝鮮動乱」】
 ソウルの青年団にいた一九五〇年、突然「朝鮮動乱」が起こりました。私は、青年団の中で軍隊に志願した者を除いて、残ったみんなと釜山へ避難しました。第一次避難です。首都も大統領も釜山に移った。戒厳令がしかれ、大変だなと思っているうちに、アメリカ軍が上陸してきて釜山は軍需物資の集結地になってしまいました。
 しばらくしてソウルを奪還したというので、戻って街を再建しているうちにまた第二次避難です。この時は物すごい吹雪の中を南に向かいました。列車の運行はアメリカ軍の指揮に入っていて、軍の命令がないと列車も動かない。戦火の中、釜山に行くのに三、四日かかりました。
 朝鮮動乱では人的資源の疎開が大きな意味を持っていた。人を残していったら北の軍隊が捕らえて利用するだろうというので、それを防ぐためにみんなで逃げました。ソウルの漢江にかかる橋は壊れている。氷の川を、荷物を担ぎ子どもを背負って逃げます。渡る途中で氷が割れ、落ちて溺れ死んだ人も随分いました。
 動乱当時、妹が、アメリカ軍の通訳をしていた人と結婚して江原道(カンウォンド)の原州(ウォンジュ)に住んでいました。「兄さんがそばにいると心強い」と言うし、仕事があるというので私も江原道に行きました。それが、現在私が同じ江原道の春川(チュンチョン)に住み着くようになったきっかけです。
 原州では、アメリカ軍の補給部隊の労務者として働きました。ペインターで、看板に字を書く仕事です。兵隊に頼まれて補給タンクに「火のかたまり」とかニックネームを書いてやると、喜んで現金をくれました。
 朝鮮動乱は江原道にいた一九五三年に終わりました。飛行機からの拡声器放送やビラで知らされました。しかし、動乱が終わったといっても三十八度線はそのままです。いつまた同じ民族間で紛争が起こるだろうかと心配でした。あれから五十年、今もまだにらみ合っている。私の世代は生まれてからずっと、戦争の中で生き延びてきた。人間としての潤いのある生活をしていない、不幸な世代だと思います。
 アメリカ軍も引き揚げていき、仕事がなくなった。私はペインターとして稼いだお金で山を買って伐採・製材の仕事を始めました。ちょうどソウルは焼け野原になっていて、再建のため木材がいくらでもいる。ばんばん売れてうんと儲かりました。お金はお母さんと弟夫婦にも送りました。

【「戒厳令」】
 一九五三年の朝鮮動乱終了後、江原道で伐採・製材の仕事をしながら、与党・自由党の活動をやりました。当時、事業をやろうとすれば、与党にいないとだめなんです。山の木を許可なく伐ったり、税金対策など、与党の活動をしていると便宜をはかってもらえる。
 そんなわけで、三十八度線に近い麟蹄(インジェ)という町の副委員長をやり、ソウルに出かけたり、元いた青年団と連絡し合ったりしていました。
 一九六〇年、自由党の李承晩(イスンマン)大統領が辞任。翌年、朴正煕(パクチョンヒ)によって軍事クーデターが起こります。朴は、日本の陸軍士官学校を卒業した親日派の少将でした。ソウルが制圧され全国非常戒厳令がしかれました。その時、私の「親分」にあたる青年団の団長だった人が、捕まり処刑されました。政党の活動は禁止され、製材業の許可も取り消されました。
 私は、こんな有り様ではこの世が成り立たない。これからは野党でないと、人間としての生きがいがなくなると思った。以降、麟蹄から今住んでいる春川(チュンチョン)に移り、KCIA(韓国中央情報部)と衝突。連行されたり、住まいを転々したり、ものすごい野党活動をやりました。
 あの時代は、共産主義という言葉を出しただけで、刑務所行きでした。もし、日本に行った人が在日の朝鮮総連の人にでも会おうものなら大変なことになります。総連は共産主義、それは敵、という公式でしたから。
 誰かから「あの人は左寄り」と通報され、しょっぴかれる国民相互監視の時代でした。国民総背番号制度ができ、一人一人に住民登録ナンバーがふられ、十八歳になると警察で十指すべての指紋押捺をさせられる。登録証には親兄弟に前科者・手配中のものはいるかなど、いろんな情報が入っている。四六時中携帯が義務付けられ、管理されました。
 私が結婚したのは朴政権の時代です。だから妻も苦労したと思います。彼女は、ソウルの洋裁店でデザイナーの仕事をしており、スターや国会議員の注文を受けるほどの腕前でした。江原道にいた私の妹がソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)で洋裁店を始め、近所の同業の知り合いだった彼女を紹介したのが、きっかけです。
 彼女は最初は、私を怖いお兄さんと思っていたのでしょう。しかし、悪さをする地方の兄さんたちが彼女の店に出入りするのを注意したりしているうちに、自然と。

【「遺族会」】
 朴正煕大統領が殺害され、朴政権は一九七九年に幕を閉じた。民主化も束の間、全斗煥(チョンドファン)がクーデターを起こし、軍事政権が続きました。
 政治活動が禁止される中で、後に大統領となる金泳三(キムヨンサム)らは民主山岳会を作ります。山登りは政治活動ではない、登山しながら話し合いもできる。これは、政権をとるための組織づくりでした。私は、江原道で民主山岳会を作りました。
 遺族会の運動も朴政権の十八年の間には、無理でした。朴政権に虐殺された「遺族会」を名乗り上げた途端、連れて行かれ殺される事件があったくらいです。当時「遺族会」を作るというのは危険極まりない運動でした。
 韓国内にようやく遺族運動が芽生えてきたのは一九八〇年代後半からです。太平洋戦争犠牲者遺族会が出来ました。
 私の目が戦後補償問題に向き始めたのもその頃。八七年に全斗煥大統領が辞め、新憲法が公布。それまで、軍事独裁政権との戦いに費やしていたエネルギーを日本に向けられるようになりました。お母さんの遺言も気になりました。「兄のお骨を捜し出して大きな墓を作りなさい」。兄貴の仇を討とうと思いました。
 私は、太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会を作った一人です。遺族の話は涙なしには聞けません。戦争中に死んだ人はまだ楽なんです。七十代、八十代のおばあさんが、二十代の夫の面影を偲びつつ、今日か明日かと待っている。こんなことがこの世にあってはならない、と遺族会の運動をやってきました。
 現在約八百五十人の会員がいます。参加意識をもつことが大切なので会費を集めていますが、長い間払えない人もいます。会員は、日本に父や兄をとられ、大黒柱がいなくて経済的には非常に厳しい。一方、韓国政府の理解もない中では事務所の維持費や人件費も大変。私も、アパートやビリヤード場など相当の資産をつぶした。
 私は兄貴の遺骨を捜そうと、北海道夕張警察署長あてに事実確認の手紙を出しました。朝鮮人が渡航する時は必ず警察に届け出たので、経過がわかると思った。しばらくして「手を尽くしたが見当たらない。北海道庁の資料担当に聞いた方がよいのでは」との返答。
 そこで兄貴の遺骨捜しの資料集めにと、一九九一年、遺族会のメンバー二人で飛行機に乗って日本に向かいました。解放以来初めての日本でした。

【「提訴」】
 東京では民宿に泊まり、兄貴の消息を調べるために国会図書館に行きました。図書館の職員に強制連行関係の資料を尋ねても「そんなものあるかな」との返答。そこで当時の発行物を片っ端から検索していくうちに、なんと日本鋼管での私たちのストライキのことが載っている『特高月報』昭和十八年四月分を見つけました。
 「『半島技能工の育成』と題するパンフレットに端を発する紛議」と書かれている。懐かしい事件がよみがえってきました。
 さっそく私はそれをコピーし、書店で『一人でも訴訟はできる』という本を買って宿に帰りました。帰国が迫っていたので、訴状だけでも出して帰りたいと思った。一晩中かかって、訴状らしきものを書き上げました。
 兄貴にしても私にしても、当時は日本人として日本の法律の下で犠牲になった。それが国籍条項でいつの間にやら外国人扱い。作った訴状は、補償せよという内容ではなく、日本人と同様の扱いにせよというものでした。
 私は、訴状を出してその後どうなるかも知らなかった。日本に行ったら映画『アリランのうた』の監督である朴壽南(パクスナム)という人に連絡してみたらいいと聞いていたので、電話をしました。「訴状を出してから帰ろうと思う」と知らせたら「それは大変なことだ。企業を相手に日本では最初の裁判を起こそうとしているのだから、ちょっと待ってくれ」と。
 急きょ集まってきたのが田中宏さん、内海愛子さんたちでした。日本鋼管訴訟を支える会の事務局長をやってくれた谷川透さんともそこで出会いました。
 一九九一年九月三十日、私は手書きの訴状を東京地裁に出しました。六十歳を超えてからの闘いの始まりでした。
 以来、谷川さんは財産も投げうって支援してくれた。日本人が朝鮮人を支援して国家に盾突くというのはどうも納得いかない話。私は谷川さんに「なぜ私たちを支援するのか」尋ねたことがあります。すると「それは私の哲学ですよ」といった答えが返ってきた。自分の問題として受けとめていることに感心しました。
 今でも脳裏に焼き付いているのは、東京地裁で判決がでた時のことです。私は、抗議して裁判所の建物の中で座り込んだ。そこで死んでもかまわないと思いました。「日本人の支援の方には迷惑をかけたくないので出ていって下さい」。谷川さんはその時病気でしたが、「死なばもろとも」と、一緒に座ってくれた。忘れられません。

【「納骨堂」】
 訴状を提出したことで私は半分は希望を達したと思いました。賠償金をとるとらないの問題ではなく、日本帝国主義の非道を公にして、次の世代に二度とこのようなことが起こらないように警戒心を促すことに意味がありました。
 日本鋼管との闘いに勝利したときは、やっと道が開けたと思いました。あてのない、疲れるばかりの民族運動に血と汗を流してきたが、努力すれば必ず成るという歴史的な教訓を学んだ。また、身銭を切って支援してくれた日本の人たちがいる。この運動を介して、後世に人類愛というものを示せたと思います。
 提訴したとき、妻は「今さらそんなことをしてものになりますか」と変な顔をしていた。家庭の主婦だったから、金銭的にやり繰りが大変だったでしょう。それが、私に付き添って日本へ来て集会に出たり、私のやっていることを見て、これは偉い人だと思い込んでしまったらしい。純真な主婦が今では「やりがいがあった。何かあったらまた打って出なさい」と、闘士に変わりました。
 貧しい団体である遺族会。私は私財を度重なる渡航費用にあて裸一貫となりましたが、人生には何ら悔いはない。「我が道、我が人生に悔いなし」です。
 日本鋼管・不二越という二つの軍国主義的な会社を相手に闘い、勝利したことに私は自負心を持っています。しかし国家を相手にした本命の江原道訴訟が解決していないのが悔しい。一九六五年の日韓協定の化け物がいまだにわれわれを苦しめています。この訴訟は、日韓協定に風穴を空ける闘いでもあります。
 私は春川(チュンチョン)市内の山の一角に納骨堂を作りました。兄貴の骨を捜しに北海道に行ったが、あの山この寺に捨てられた主のいない骨が山とあった。日本がわれわれに対して無残な仕打ちをしたことを後世の戒めとするため、骨とお寺にあった過去帳の写しを持ち帰りました。どこにこの骨があったのか、なぜ死んだのか、納骨堂を建ててその旨をちゃんと記し、実証として残したかったのです。
 改めて振り返ってみるに、戦局の厳しい中での日本鋼管での集団抗争。裁判でも明らかにしなかったが、戦艦大和の大砲をつくる機械の配電盤に水をぶっかけた。無謀極まることだが、やらざるをえなかった。あの行動は民族として当然とるべき行動であったと思っています。幸いにして命永らえて、ここに書く幸運を得たのは、心ある日本人の皆さんのおかげであることは言うまでもありません。

【「姉」】
 半年の間、夢中で書いているうちに最終回を迎えました。なぜ、「我が人生 我が道」を書かなければならなかったか。私は命があまりない、これだけは言っておきたいという切羽詰まった気持ちに駆られたからです。
 話は戻ります。兄貴が徴用対象になったとき、私が身代わりになって行くと言ったのですが、実は、それではなかなか難しかったことを、後で聞きました。
 私の故郷の昌寧(チャンニョン)は南部の中心地・大邸(テーグ)と隣接しています。大邸には日本の陸軍二十四部隊が駐屯していて、度々、三八式歩兵銃を抱えて昌寧まで四十八キロの行軍訓練をしていました。そして演習地での将校の女の世話は、所轄面長の責任で行っていました。
 私には貧乏人には似合わない美人の姉がいます。日本人の憲兵はそこに目をつけた。面長の川村仲太郎は、私が兄貴の代わりに行くといっても絶対だめだと言っていたのに、ある日突然承諾した。その裏には、姉が将校の相手に出されるという惨事があったことを当時は知りませんでした。
 物言わぬ性質の姉は非常なショックを受けたと思います。人生の華やかなるべき時代を暗黒の世界にさまよったのであり、その後は一人の子もなくむなしく老い、一九九九年にガンで亡くなりました。
 父を治安維持法違反で留置場にぶち込み、絶対行かせないと約束していた兄貴を北海道に連行して死なせ、私を日本鋼管へ行かせ、姉までも人身御供(ひとみごくう)にした。
 姉の件は、口が裂けても言わないつもりでした。しかし、このまま言わなければ一家がどのように破壊されたかわからない。日本帝国主義の不法侵略のかげに、このような家族があったことを後世に証言する気持ちで書きました。
 私は死ぬまで闘います。

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by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:17 | 関連1. 一次訴訟 金景錫さん


連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp


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