高徳煥さんの陳述書

甲第三号証

 一九四〇年代、韓国の若い人達は、日本の支配下で大変苦しい状態にありました。私は日本の大学へ行こうと思っていましたが、戦争でだめになってしまいました。その頃私は咸鏡北道の城津府旭町四三一番地に住んでいましたが、地元の若い人達は、満州に行き、あるいは敵地に送られ地元には、若い男は殆どいませんでした。一九四四年一〇月ころ、私は病院の庶務課に勤務していました。シライシシンゾウという東京大学出の人が院長でした。その時徴用令状が来て不二越の福田中隊に配属となり、百名ほどの教師や銀行員の人達と一緒に連行されました。城津の市役所から出た指名徴用です。マツキミノルという城津の警察署長から訓示を受け、軍需工場に送ると言われました。指名徴用の令状には○○へ○月○日、徴用は二年、「不二越」と書いてありました。協和会手帳は持たされませんでした。城津まで来た中隊長に引率されて、釜山へ行き、そこで服を消毒され、関釜連絡船で下関へ、それから汽車で富山へ来ました。
 福田中隊で一ヶ月厳しい訓練を受けました。福田は三〇才くらいでした。訓練所には所長が別にいました。高等文官でした。背が低くて、タバコを一日に五箱も吸いました。訓練期間中は軍事教練もありました。実際武器は持ちませんでしたが、戦地へ行った時の訓話がありました。私たちの胸には徴用マークがありましたが、これは差別マークのようなものでした。
 訓練の後、最初は旋盤作業やベアリングの検査などをしましたが、四五年になると、機械設備の疎開の仕事などの雑役に従事させられ、トラックの運転助手などもやらされました。仕事は八時から始まりましたが、そこには日本の大学生、日本の女子挺身隊、朝鮮の女子挺身隊、技術工、朝鮮の徴用工など五種類の人達がいて、旋盤の作業をしていました。女子学生たちはそれぞれの班の先生に連れられてきて、一日中監視され、帰る時も列を作って帰りました。それが勉強の代わりだったようです。働く時はお互いに言葉は交わしませんでした。朝鮮からの女子挺身隊の人達ともすれ違いましたが、話はできませんでした。労働時間は午前八時から午後六時くらいでしたが、戦争が押しつまってくると、二時間ぐらい増えて、休憩は食事の時間を除いて殆どありませんでした。
 食料がなくなってくると朝食ぬきのこともありました。昼食には三角のパンがよくでました。日本人は外へ出ておかゆのようなものを食べていまいたが、私たちは出られませんでした。休日もなく、日曜日も仕事をしました。
 寄宿舎には廊下の両側に部屋があり、一部屋に八人から十人くらい、頭をつけ合わせて寝ました。寝る前には廊下で分隊長が点呼をかけました。黙って外出すると、中隊長の前で殴られました。大変厳格で、個人的な行動は不可能でした。
 賃金は出発する時日本の本職工と同じと言っていましたが、一度も支給されたことがありませんでした。所長も労務係も賃金については頓着しませんでした。私達も徴用で死ぬ覚悟で来ていたので金には執着しませんでした。実際要求できるような空気ではなかったし、でも、私の場合は、すでに結婚していたので、金はやはり欲しかった。二一才までは応召でBC級戦犯の死刑もあり得ましたが、その点二二才で徴用で不二越へ来ていて、考えようによっては幸いだったとも言えます。日本人の給料にも関心がありませんでした。徴用というのは、そもそも自分で自分が管理できなかったのです。手帳なども記憶にありません。
 富山大空襲の時、工場内の放送で、下関方面からB29が新潟方面に向かっていると言っていたのを覚えています。空襲の時はみんなで田んぼの方に逃げました。爆撃後トラックで外へ出たら、神通川の川原に死体が並んでいました。戦災直後は憲兵が市内を管理していたようです。玉音放送を聞いた後、工場は一時作業が停止されましたが、その後も仕事はしました。戦後、市内を見て歩きましたが、一月以上煙が上がっていました。戦争後は挺身隊の姿はありませんでした。
 一〇月下旬か一一月に、歩いたり乗り物に乗ったりして大阪経由で博多へ行きました。途中広島の惨状も見ました。全部焼け野原でした。博多では一日か二日待って船に乗せられました。五〇〇〇屯くらいの木造船でした。関釜連絡船が逆さになって沈んでいるのが見えました。報復行為があるかと思って身を隠していた分隊長がちょっと現われて、すぐに消えました。帰る時、同じ船には二~三〇〇人乗りました。自分たちが先発隊で、後に残った人もいました。まれには、逃亡者もいました。分隊長のところへ、朝鮮人の班長が賃金についてかけ合いに行きましたがだめでした。釜山に着いて初めて三八度線が出来たことを知って驚きました。帰国後、運輸会社に一年勤め、キリスト教の信仰を持っていたので、三八度線を越えて南下し、後から妻も来ました。
 右のとおり間違いありません。

    一九九三年五月一七日
高徳煥

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# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:03 | 関連1. 第一次訴訟

崔福年さんの陳述書

甲第二号証

 一九四三年五月、栄華国民学校の六年生になったばかりの頃、二人の日本人が来て「不二越に来ればお金も沢山貰えるし、卒業証書あげるし、中学、高校にもやらせてやる」と言いました。二人は不二越の人で、そのうちの一人は五〇代の老人でした。不二越まで連れて来て、その後も一人は工場で見かけたから、不二越の人に違いありません。そのとき、学校の先生は何も言いませんでした。だから人が集らなくて、不二越の人は学校へ来て先生を苦しめたようです。家は三人家族でしたが、生活が苦しく、勉強もしたかったので、私は不二越へ行くことを決意しました。親は反対でした。支度金などはもちろん一銭もありませんでした。帽子とか服は受け取りましたが、ですから物理的に強制されたわけではありませんが、金もくれないし、勉強もできなかった。そういう点でこれは詐欺と同じだと思います。
 私の学校からは結局八人の生徒が行くことになり、仁川で五〇人位の人と合流し、汽車で釜山に行き、船で日本に渡り、そこからトロッコのような汽車とトラックに乗り継いで富山に来ました。一九四三年六月のことです。それから四五年七月までいました。
 不二越では軸受課で旋盤工の仕事をしました。ローラーのようなものが回っている中で金属を磨いたり、切ったりする作業です。四〇から五〇才くらいの日本人の男の人と二人組みになって働きました。私が手に怪我をした時も、その人が病院までおぶって行ってくれました。労働時間は、普通午前八時から午後六時までで、間に一二時から一時までの休憩があり、都合九時間でした。日が長い時は一時間早く起きて働きました。昼夜の二交替制で、夜一週間働くと、次の一週間は昼といった具合でした。これにも二通りのサイクルがあって、一つは昼勤が八時から一二時、休憩をはさんで一三時から一八時、夜勤が二〇時から零時、休憩をはさんで一時から六時というサイクル、もう一つは、昼勤が六時から一〇時、休憩をはさんで一一時から一六時と、夜勤が一八時から二二時、休憩をはさんで二三時から四時というサイクルでした。
 日曜ごとに休日があり、洗濯をしたり、お風呂に入ったりしました。外出はできませんでした。賃金は全然受け取らなかったし、小遣いもくれなかった。そこで、不二越に来てから六ヶ月後に事務室に一〇人位でお金をくれる様に交渉に行きました。事務室には女の人が二人いましたが、もう少し待ってくれ、今後も働いてくれと言われ、追い返されました。抑圧的で、お金に関しては日本人とは話す雰囲気ではありませんでした。ですから、事情をのみこんでから、新潟から送り出されるまで、お金に関しては一言も言えませんでした。自分がいくら貰えるのかも聞けなかった。軸受の方では、勤労手帳も貰った記憶はありません。寮も李鐘淑さんたちとは別だったと思います。仁川からの五〇人は皆一緒でした。ほかの人達も皆お金は一銭も貰っていません。作業着を支給されただけです。ただ、死んだ人だけはいませんでした。
 寄宿舎は二階建てで、二階には八畳くらいの部屋が五つあり、一部屋一〇人で、寝る時頭がぶつかるほどでした。食事は米と麦の混ぜご飯が何日かに一度出たほかは大豆の絞りかすで、ひどいものでした。昼食は食堂で、日本人と韓国人は別々にかたまって食べましたが、内容は同じだったと思います。一ヶ月に一、二度家に手紙を出しましたが、おなかが空くと書いて送ったら家族から米の粉を送ってくれました。
 自由な時間はありませんでした。監視員はいませんでしたが、寮長からは、外出するなと言われていました。私は病院通いで外に出ましたが、辺りには何もなくて外出はしたくもありませんでした。病院へ行った時、韓国人の部落に柿があったのを見つけ、夜おなかが空いて、友達三人と拾いに行ったことがあります。
 怪我というのは、一九四四年一一月頃、ローラーで金属を切る作業をしていた時、人にぶつかった拍子に指を機械にはさまれたもので、どういう病院かは分かりませんが、歩いて二〇分くらいのところへ行きました。少し怪我をしただけなのに、寝かされて知らぬ間に医者に指を切断されてしまいました。
 一九四五年七月末、夜中に集合させられ、荷物も持たされず、新潟から船で沙里院に向いました。不二越から私たちを連れてきた人はそこでいなくなり、別の人が来て、一ヶ月家で待機せよと言われましたが、間もなく戦争が終わりました。当時はただでさえ娘が余っていた時代、まして私のように障害を背負った人間には条件の悪い結婚しか出来ませんでした。苦労の連続で、最初の相手とは離別、再婚の相手とも死別し、その後二〇年間行商をしながら三人の子供を育て上げてきました。今は目が見えず、付添いがいないと歩けない状態ですが、多分長い間の栄養失調のせいだと思います。
 この問題が解決されない限り、死ぬに死ねない思いです。
 右のとおり間違いありません。
     一九九三年五月一七日
崔福年

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# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:02 | 関連1. 第一次訴訟

原告Pさんの証言

私はPと申します。

 1 不二越に行く経緯

私が、女子勤労挺身隊への勧誘を受けたのは、国民学校の5年生で13歳のときです。
担任だった30歳前後の女性教師が、普通の授業時間の中で、「日本に行ったらもっと勉強もできるし、生け花、踊りも教えてもらえる。」、「工場の設備や待遇も良いし、学校に行くこともできる。」、「どうせみんな行くことになるのだから、1番先に行くのが一番有利」、「愛国することだ。」などと、女学生が工場で働いている活動写真を見せて勧誘しました。
 両親は、日本に何しに行くのか心配し反対しましたが、私は先生の言うことだから間違いないと信じ、父の判子を無断で持ち出し、手続をしました。
 こうして私は、富山の不二越まで連れて来られたのです。

2 不二越での仕事

   不二越では素材課で飛行機の部品を作る仕事に従事しました。
私は体が弱く旋盤を操作することができず、箸のような細い直径2、3ミリの金属棒を5ないし10センチの長さに切るターレットという名前の機械を担当させられました。一本切るにも両手で力を込めないと切断することができず、それを1日に6000から8000本切らなければなりませんでした。それが終わらないと残業をさせられ、1日終わるとくたくたになりました。
  私たちは、朝早くから夜まで働かされました。夜勤作業をすることもありました。夜間作業中に居眠りをしていて、上司に小突かれて怒鳴られたこともありました。
  私は、金属棒の熱い切り屑が指に刺さり、そこが化膿して2回手術をしなければなりませんでした。私の同僚で同じ怪我をした者は大勢いました。
  このような仕事を1年ほどしていたのに,給料は1円ももらえませんでした。


 3 不二越での生活について

   休みは月に1~2回程度はあったと思いますが、休みの日でも外出禁止で、外出できたのは、怪我をして病院での手術が必要になったときだけでした。
 食事は、朝も昼も夕食も、たくわんとみそ汁1杯弱とお椀に半分弱の大豆入りご飯ばかりでした。
 夜勤のときも夜食としてひし形の三角パン2枚だけしか出ず、おなかはすいていたのですが、あまり食べられないようなまずいパンでした。おかずなどが出たことはありませんでした。
 食事の絶対量が不足し、私はいつも腹を空かせていました。

 4 不眠症になったこと

   私が不二越で働いていたとき、空襲がひどくなり、昼は防空訓練をして、毎晩、空襲で防空壕に逃げ込むようになりました。また、私は、重労働、家から離れた寂しさ、空襲の恐怖のために少しの物音でもびっくりして起きるようになりました。やがて毎日のように空襲警報がなるようになりました。そのようなことから不二越での最後の2ヶ月くらいは、不眠症になってしまい、寮の中の衛生室で寝る生活となりました。当時衛生室で過ごす人が私を含めて3人いました。やっとの思いで仕事に戻っても、体がついていかず、また衛生室に戻るという生活を続けていました。そのときは眠れなくて、食べれなかったので、骨と皮だけという痩せた体になってしまいました。
 それで、不二越の寮の人から、これでは働けないから家に帰そうという話がでました。そのような矢先、工場が朝鮮の沙里院に疎開することになり,私もそちらに行きました。ところが機械が到着せず,晋州の自宅で待機を命じられていたところ,8月15日の解放を迎えることができたのです。

5 帰国後のこと

 帰国後も、不眠症は治らず、医者に見てもらったら、神経衰弱で入院が必要だと言われましたが、お金がなかったので、薬をもらうだけでした。また、栄養不足のため、脚気になっていました。それから栄養のあるものなどを食べ、食生活に気を配るようになって、徐々に体調はよくなって行きましたが、不眠症の薬を手放すことはできませんでした。
 私は、19歳のときに、結婚しましたが、日本に行っていたことや不眠症になっていることはとても言えず、秘密にしていました。ですから、不眠症の薬も夫に隠れて飲むしかありませんでした。その後、寝ているときにうわごとを口走るようになり、それを夫から指摘されました。私は神経衰弱が再発したと思い、自分から家を出て、結婚生活は半年ほどで破綻してしまいました。
 父は、心配の余り何も食べることが出来なくなり、間もなく亡くなりました。母も心配したためかその2-3年後、40代の若さで亡くなりました。その後、24歳のときに再婚し、3人の子どもも生まれましたが、その夫や子どもたちにも挺身隊に行ったということは言えませんでした。
 実際、挺身隊に行ったということがわかった人の中には、離婚されたり、夫婦仲が悪くなったりした人がたくさんいます。
 私は、現在でも、調子が悪く、不眠症に悩まされています。不二越での重労働と栄養不足や空襲警報など、過酷な生活が原因であることは間違いありません。
 今年初め、イラク攻撃をテレビで見て、空襲を思い出し、恐怖で胸が苦しくなり、寝込んでしまいました。とても苦しかったです。
 年端も行かない子供を騙して日本に連れて行って、賃金も支払わず重労働をさせた不二越とそれに加担した国は、補償し、謝罪をしてほしいと思います。(03.11.7 1審第2回口頭弁論)
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# by fujikoshisosho | 2008-07-07 17:47 | 原告の証言


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


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