第一次不二越訴訟裁判闘争の記録

李鐘淑さんの陳述書  崔福年さんの陳述書  高徳煥さんの陳述書
・第一次訴訟、富山地方裁判所の判決文-要旨
・地裁判決をうけて、原告団「一〇〇年訴訟宣言」
・第一次訴訟、名古屋高裁金沢支部判決文-要旨
「日本の戦争責任を問う」
・第一次訴訟原告団長、金景錫さんの回想録『我が人生、我が道』
# by fujikoshisosho | 2008-07-07 16:44 | 関連1. 第一次訴訟

第一次不二越訴訟の略歴

不二越第一次不二越訴訟略年表

1934年
 不二越海軍指定工場となる

1938年
 国家総動員法
 不二越陸海軍共同管理工場の指定を受ける

1939年
 「朝鮮人労働者内地移住に関する方針」のもと「募集」方式での強制連行を拡大

1942年
 「官斡旋」方式での強制連行に転換

1943年
 6月頃、崔福年さん不二越へ

1944年
 「徴用」方式による強制連行の実施
 女子挺身勤労令施行、平壌師団学兵事件
 1月、 不二越軍需会社の指定を受ける
 5月、朝鮮から第一次女子挺身隊入社
 7月、李鐘淑さん不二越へ
 10月、高徳煥さん徴用される
 11月、崔福年さん右人差指をケガ
 12月、朝鮮から第一次男子報国隊入社

1945年
 3月、富山工場疎開
 7月、沙里院に工場建設と称して送り返す
 8月、 富山大空襲、日本の敗戦

1991年
 9月30日、金景錫さん日本鋼管を相手に戦争責任追及の初の対企業裁判を提訴

1992年
 6月23日、金景錫さん不二越を訪問し、未払い賃金の支払いと謝罪を要求
 9月28〜29日、原告ら不二越へ訪問。会社は門前払い。原告団は抗議して横断幕を持って座りこみ
 9月30日、富山地裁へ提訴(金景錫さんが原告団長、原告は李鐘淑さん、崔福年さん、高徳煥さんの3人)

1993年
 1月29日、第1回公判。原告意見陳述  
 5月26日、第2回公判。原告は意見陳述書と李さんの勤労手帳、崔さんの学籍簿を証拠として提出。
 9月1日、第3回公判。戸籍謄本、住民票など提出
 12月8日、第4回公判。原告の不二越での就労を示す富山社会保険事務所の資料を提出。

1994年
 3月2日、第5回公判。原告側は「不二越が国際法違反」と主張。
 5月11日、第6回公判。不二越側は、「時効成立」「日韓協定」により請求権消滅と主張。
 6月22日、第7回公判。国際法・時効の主張への見解を表明
 10月5日、第8回公判。原告李さん証言。
 10月6日、第9回公判。原告李さん証言。
 11月30日、第10回公判。

1995年
 2月1日、第11回公判。原告崔さん証言
 2月2日、第12回公判。原告崔さん証言
 4月13日、第13回公判。
 6月14日、第14回公判。原告高さん証言
 6月15日、第15回公判。原告高さん証言
 8月30日、第16回公判。原告側が4人の証人を申請。
 11月11日、第17回公判。
 12月20日、第18回公判。供託をめぐり論争。

1996年
 3月6日、第19回公判。原告の証人申請を却下し、結審。
 7月24日、一審判決公判。原告の訴えを事実関係では認めつつも、時効により棄却。
       原告団「100年訴訟を宣言する」声明を発表。

1996年
 8月6日、名古屋高裁金沢支部へ控訴。 

1997年
 1月29日、控訴審第1回公判。(金景錫さん・崔福年さん・李鐘淑さん来日)
 1月30日、金沢・野田山の尹奉吉義士暗葬の地へ墓参
 4月20日、尹奉吉義士追悼法要と祈念碑の除幕式に金景錫さん参加
 4月21日、控訴審第2回公判。(金景錫さん来日)
 4月22日、金景錫さん不二越本社に申し入れ。
 6月23日、控訴審第3回公判。
 9月24日、控訴審第4回公判。(金景錫さん・崔福年さん来日)
 9月25日、崔福年さんに厚生年金脱退手当金-18円支給-受け取りを留保。
 12月24日、控訴審第5回公判。

1998年
 2月26日、不二越株主総会に原告団全員出席。(金景錫さん・李鐘淑さん・崔福年さん・高徳煥さん)金さん・李さん・高さんが発言、崔さんは発言権を奪われる。
 4月5日、企業の戦争責任を問う全国集会と市内デモ。(金さん・李さん・崔さんと原告以外に不二越元女子勤労挺身隊の梁春姫さん・権炳淑さん来日)
 4月6日、對不二越百年訴訟団、不二越社長に面会を申し入れ。
 4月6日、控訴審第6回公判。金景錫さん証人尋問で時効の中断を証言。
 4月7日、李さんに厚生年金脱退手当金ー16円支給。李さんは抗議の意志として日本政府への寄付申し入れる(その後アムネスティーに寄付)。崔さんの障害給付と脱退手当金の現在の貨幣価値への換算について要望書を提出。
 4月7日、金さん江原道知事からの親書を富山県知事に渡す(浜岡之隼県総務部次長が対応)。
 7月13日、對不二越百年訴訟団、不二越正門前で16日までハンスト座り込み。(金さん・崔さん・李さん・権さん・梁さん・洪さん) 
 7月14日、富山県への申し入れ
 7月14日、権炳淑さん・梁春姫さんに厚生年金脱退手当金各18円支給。受け取った上で
 7月15日、不二越正門抗議の意味で投げ入れる。
 7月15日、控訴審第7回公判。李鐘淑さんの証人尋問。
 7月16日、對不二越百年訴訟団、本多正道不二越会長宅、県経営者協会・商工会議所への申し入れ。
 10月19日、控訴審第8回公判。結審。(金さん・崔さん来日)
 10月20日、崔福年さんの厚生年金障害給付金に関する要望書を富山社会保険事務所に提出。
 12月21日、控訴審判決公判。一審判決を支持し、原告の訴えを棄却。(金さん来日) 
 12月22日、不二越本社前で、不二越の元女子艇身隊で97年2月に亡くなった姜徳景さんの慰霊祭を行なう。(金さんが韓国語で追悼の言葉を述べる)
 12月26日、最高裁に上告。

1999年
 2月25日、不二越株主総会。
 4月6日、金景錫さん日本鋼管訴訟で勝利和解。

2000年
 2月24日、不二越株主総会。
 3月13日、強制労働の損害賠償を不二越に求める訴訟を米国カリフォルニア州の裁判所に提訴する準備のために金さんが来日し、記者会見する。
 7月11日、不二越訴訟、最高裁で勝利和解
 7月14日、尹奉吉義士への報告の墓参
# by fujikoshisosho | 2008-07-07 16:43 | 関連1. 第一次訴訟

李鐘淑さんの陳述書

一九四四年、私が国民学校六年になったとき、事業がうまくいかなくなり、父が北海道に出稼ぎに行きました。ある日、日本人の町内会長が来て、遊んでいないで学校へ行けと言いました。そこで、ヨンカン国民学校へ行くと、不二越のきれいなパンフレットを見せられ、風呂もプールもあるのを見ました。学校で応募生徒が集まらないので、町内会に働きかけたのです。パンフを持ってきた人は不二越の腕章をしていました。ここへ行けば、学校は卒業できるし、女学校にも行けるし、金も沢山貰えると言われました。また、タイプライターやミシン、お花なんかも教えてくれると言われました。一〇名の募集でしたが、応じたのは私を含めて七名でした。説明を聞いた次の日、簡単な荷物をまとめて、光華門の前に集合しました。そこには二〇〇~二五〇名ほどの女子生徒がいて、写真を撮りました。そのとき憲兵もいました。不二越の人三人と、憲兵一人の四人が付添って、ソウルから汽車で釜山へ行きました。そこで身体を消毒され、連絡船で下関に向かいました。このとき不二越の三人のうちの一人がいなくなり、残りの二人と憲兵一人が一緒に不二越まで来ました。
 汽車に乗って来る途中どこかで一泊しました。東京だったかどうかわかりませんが、そこで地下鉄に乗った記憶があります。汽車の中からは、左手に山が見えました。それから一ヶ月の訓練を受けました。訓練は軍隊式でひどいものでした。訓練の後、精機四課に配属されて、「小面取り」という研磨の仕事に従事しました。入社のとき社員手帳をくれましたが、それには「昭和一九年七月六日入社」となっています。また、生年月日は戸籍上は昭和六年一〇月二九日ですが、手帳には一九日となっています。帰る直前に一一寮の寮長がそれを回収し、二〇年七月一七日の日付で預金額を「八拾七円七拾六銭」と記入して返してくれました。実際に返してくれたのは七月二〇日です。
 仕事は「赤番」「青番」の二交替でした。精機四課には六人の日本人女性がいて、労働時間は同じでしたが、仕事を教えた後いなくなりました。夜の仕事のときは一二時に御飯を食べました。ハンドルを回している人が、眠くて倒れたこともありました。休日は有りませんでした。食事のときは主に三角のパンがでましたが、まずくてとても食べられませんでした。そのほか海藻のビビンバのようなものも出ました。ひもじくて、セリを採って食べたことがありますが、それはおいしかったことを覚えています。昼は大きな食堂で、日本人、韓国人別々に集まって食べました。
 寄宿舎は汚いところで、布団も汚くて、ひっくり返して使っていました。部屋は一二畳くらいのところを半分に仕切って、六畳相当にし、それぞれに六人ずつ入れられていました。夜は勉強する時間がありました。寮長みたいな人が、本もないので黒板で漢字を教えてくれ、生け花なども教えてくれました。寮長はいわば監視役で、私達は身動きできませんでした。女の先生が三人いましたが、一人は池森という三〇代、もう一人は林という二〇代の人でした。池森という人のほうが怖くて、殴られたこともありました。
 小遣いは少し貰ったことがあります。しかし、デパートに行っても物が買えるような額ではありませんでした。えんどう豆をつないだようなものを買うのが精一杯でした。
 手帳は記入のため三回行ったり来たりしましたが、給料のことは聞かされませんでした。八七円なにがしは、トータルとして記入されたものです。給料については言ってはくれないし、また聞けるような状況でもありませんでした。あるとき、二一才の先輩の「姉さん」が聞きに行ったら、「そんなことを聞いてどうする、それでどうするのか」といって、池森さんから殴られるのを見ました。結局、私達は、一銭も給料は貰っていません。
 帰国の経緯ですが、一九四五年七月二〇日突然「沙里院に分工場を建てるので帰国して先輩として後輩を指導しなさい」と言われました。夜中に汽車に乗り、船に乗り継ぎました。船は大きな木造船でした。海上には機雷が浮いていました。私達は船室で竹製の浮きを担いで座っていました。船酔いしたので甲板に出てみたら、兵隊が「この船はステッセルの乗った船だ」と言っていました。空襲警報が鳴ったので、佐渡に寄って、一泊しました。それから清津港に着き、国民学校に連れて行かれ、さらに沙里院の公会堂に収容され、最後にソウルの京畿道道庁へ行ってそこで解散させられました。帰るときも沙里院までは、不二越の人が六~七名が付き添い、後は知らない人でした。「これからどうするのか」と聞くと、「家で待機せよ」とのことでした。家に帰って二〇日目に祖国は解放になりました。荷物は後の船で送るとのことでしたが、その後、不二越からは何の音沙汰もありません。ですから私は今でも不二越の従業員なのです。小さい子供の胸に言い聞かせて、これまで不二越に言われたことを守り通してきた私達と、不二越側が面会もしないというのは非常に残念です。
 右のとおり間違いありません。

 一九九三年五月一七日

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# by fujikoshisosho | 2008-07-06 14:01 | 関連1. 第一次訴訟


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


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