「我が人生 我が道」金景錫(中)

【「一冊の本」】
 夜はなかなか眠れないので私はよく本を読みました。川崎駅の有隣堂という、今は駅の地下に移動している書店ですが、そこに行った時のことです。何気なく見ていると『半島技能工の育成』という本がある。手に取ってパラパラとめくってみたら、私たち自身のことが出ているんです。
 国民勤労研究所というところが、「半島労務者の取り扱い」について日本鋼管の高浜労務次長に聞いたものでした。確か二十銭だったか記憶は定かではないが、買ってきて、じっくり読んで見ました。一九四三年三月、連行から半年ぐらいたった頃でした。
 そこにはこんなことが書いてありました。「訓練工の賃金は内地工同様、賃金統制令により何ら差別はしていない」「給料を取ると収入の七、八割を送金し後は小遣いに困る者、靴とかワイシャツとか高価なものを買って小遣いがない者もいる」「収入を管理する意味と、逃亡を防ぐ意味で、手取りを二十円ぐらいにして、残りは強制的に貯金させろという案も出ている」といったデマや詭弁。
 「彼らの態度で一番目立つのは常にだらんだらんしていて、いかにも怠惰らしく見える」「同年令の内地工に比し、機能方面が非常に劣るように見受けられる」。さらに、「食わせれば際限なく食べてお腹をこわす者が多いので、多少はご飯が足りないという連中もあるが、それも慣れの問題」「湯茶は内地人の倍以上は飲む。特に、夏場の作業の時は猛烈で、いくらとめても飲み、結局はお腹をこわす」といった調子でした。
 もう頭にきちゃって。民族侮辱的な数々、あれほど会社に尽くして一生懸命働いてきたのに、何でそんなことをいわれなければならないのか。韓国での日本人巡査や日本人教師への怒り同様に、日本という国に対して、日本人に対して批判が生まれました。
 私は、各寮の主だった幹部に声をかけ集まってもらった。本は鶴見や扇町の寮にも広がり回し読みされました。「こんなばかなことがあるか」とみんな怒りました。誰からともなく、会社の正門の横にある請負の須田町食堂に集まっては、本のことを話すようになりました。
 それから一か月、食堂従業員とある訓練工の間のいさかいをきっかけに、多くの朝鮮人労働者が食堂に詰めかけました。「会社は謝れ」「帰国させろ」と言って、約五百人が集まりました。

【「雨の日のストライキ」】
 一九四三年四月十日。その日は雨でした。須田町食堂に朝鮮人労働者の半数以上の五百人が集まると、会社側はなだめようとしたのか懐柔に出たのか、たくさんの食物を出してきました。おかずにいい物があったし、何度食べても文句は言われなかった。みんなはこれ幸いとばかりに、あきれるほど食べました。闘争の現場というより食べる現場でした。
 演説したり、独立運動の話をする人はいません。みんなが「侮辱されてはいられない」「家に帰ろう」などと話していました。
 「現場に行かずになんでここに集まっているんだ」と言われ、私は「誰がわれわれにそうさせたのだ。責任者を、高濱次長を呼んでこい」と答えた。私の指導員であった藤倉沖房がとんで来て「金城ちょっと来い。現場に戻れ」と言ったが、ききません。夕方になっていったん寮に戻り、翌日また食堂に集まりました。
 その日も雨でした。食堂いっぱいに座り込みました。夜勤の者もかけつけてきて工場生産はストップしました。警察や憲兵もやってきた。顎ひもをしめ軍刀・拳銃をぶら下げた半マント姿の憲兵。十文字に割って入り、「絶対となりの者と話すな」と言ったが、ききません。韓国ではうれしいときも、悲しいときも、よく『アリラン』を歌います。みんなで歌いました。
 朝鮮人の議員のパクチュングンも来て「俺はパクだ。おまえたちこんなことしたらだめだ」と言った。私たちは意気軒昂で若い血がたぎっている。「なんだこの野郎」といってたたき帰しました。「最初の約束はこんなはずではなかった」「謝れ」「食事を改善せよ」などと口々に叫びました。
 私は、このまま騒いでいるだけじゃしようがないと思い、手を挙げて憲兵の指揮者に者を申しました。「本に書いてあったことをまず謝れ。食事を改善せよ。この間仕事についていないが、出勤したことにせよ」といった条件を出しました。
 私は同盟罷業(ストライキ)とかをまったく知りません。前日に「日本国体研究所」と名乗る人がやってきて私にコーチして帰りました。なんでも朝鮮人の大学生の集まりとかで、うわさを聞いて東京からやってきたとのこと。秘密裏に会いました。「何々を要求せよ。最後まで絶対がんばれ」とか言っていました。彼らに会ったのはそれっきりです。
 憲兵は私に、「言うことはそれだけか」と聞きました。「そうです」と答えると、「じゃ、おまえちょっとこっちへ来い」と。大型パイプを作っている第二製管の事務所に連れて行かれました。

【「弾圧」】
 連れていかれた事務所では特高(特別高等警察)が「誰がお前たちをそうおだてたのか、正直に言え」と背後組織を探ったり、「お前の田舎はどこか、兄弟は何人か」と根掘り葉掘り聞いてきました。私は「今はそんなのんきなことを言っている場合ではない。早く現場に戻って、犠牲者がでないように」と言い返しましたが、殴る蹴るが始まりました。
 ちょうどその頃食堂では、指導員の藤倉が「私に責任がある」と言ってみんなの前で、自分の指を包丁で切ってしまった。やくざ世界の詫びってやつでしょうか。血がぱっと流れ出るのを見て若い人らは興奮し、「死んでも動かない。金城はどこに行ったのか」と騒いだらしい。
 年のいった相当階級の高い特高だったと思います。剣道の竹刀で私を叩いた。打たれた瞬間、竹が割れるようになって肉をはさむものだからすごく痛い。頭は殴られてこぶだらけ。両手は後ろ手にされ紐で吊されました。細い紐だから食い込んできて相当痛い。人間の重さでちぎれて死ぬのではないかと思ったほどです。
 外は雨。事務所の床も出入りする警察や憲兵の靴ですっかり濡れていました。そこに転がされては蹴られる。犬ころのように扱われました。人間、こんなに殴られても死なないものかと感心するぐらい殴られました。気を失いました。
 私と同じ寮に金善在という先輩がいます。彼は、町に出るときは先をとがらせた長いドライバーを持っていき、家の壁を「なんだこの野郎」と言っては突いて歩いていました。私は、一般住民には迷惑をかけるなといっていたのですが。その彼と趙昌基の二人はこの時行方不明になりました。
 『特高月報』によれば、四月十二日に「首謀者十五名を検挙」とありますが、五十名ぐらいはいたと思います。月報に、「金善在はパンフレット問題発生せるを以て好機至れりとなし、之を民族独立の観点より指導した」と記されています。行動の面では私でしたが、教養の面では一枚も二枚も優れた人でした。
 後に、立教大学の山田昭次先生が横浜地方検察庁に金善在の消息を調査依頼したが分からず、春川(チュンチョン)にずっと住んでいる弟さんに聞いても日本に行ったきり帰っていないとのことでした。当時、日本鋼管の運河で死体を見つけたという話がありました。彼が連れて行かれた警察と運河はつながっているので彼ではないかと思っています。
 山田先生が聞き取りのためやっと弟さんに会えたのですが、みやげを渡そうとしたところ「日本人のものはいらない」と言って絶対受け取りませんでした。

【「釈放」】
 どのくらい時間が経ったでしょうか。気がついてみると床に転がされていました。話し声がするので聞いていると、警察らしき者が「こいつはもうだめだから出してやれ」と言っていた。会社の職員らしき者は「会社で死なれると困るからそちらで始末してくれ」とやり合っていたようです。
 その頃現場の方では交渉が始まっていた。会社は「どうしたらおまえたちは解散するのか」と聞いた。工場の炉は常時動かしていないと中の鉄が固まって壊れてしまう。日本人は軍隊に行っていて、クレーンも製鋼も製管もほとんど私たちが現場を担っていたので、会社はこのままでは大変だと思ったらしい。
 みんなは「金城はどうした。殺されてるんじゃないか。金城を出したら無条件に現場に復帰する」と要求した。そこで会社は私を釈放しました。釈放前にまた死ぬほど殴られました。友達が飛んできて私を担ぎ食堂から二キロぐらいある寮まで連れて帰ってくれました。
 肩甲骨を骨折し、腕は脱臼、身体中がむくんでいました。鎮痛剤などなく、湿布でしのいだ。中には勇敢な者がいて、寮の指導員に「病院に行かせろ」と言った。指導員は「非国民は病院に行かせるわけにはいかない」と拒み、治療は受けられませんでした。現場組長の吉田梅蔵はかわいそうにと思ってか、腕が使えない私に軽い仕事をさせました。午前中現場に行って午後からぶらぶらする毎日でした。警察はその後もしょっちゅう顔を出していました。
 スト以来、会社は少し変わりました。『半島技能工の育成』に載った高浜労務次長はいなくなり、朝鮮人労働者はあまり殴られなくなった。食事もいくらか量が増えた。検挙されていた約五十人は二人を除いて帰ってきた。会社の方も、人手不足なので帰してくれと警察に頼んだようです。
 私が病院に行ったのは六か月後。日本鋼管病院で手術を受けたが手遅れで、元の身体には戻りませんでした。大手術だったので、痛いし、熱は出るし、喉は渇く。それで氷のうを破って中の氷を取り出して食べました。なんとおいしいこと。病院の備品のゴム製品を破ったのですから普通だったら大変なことになります。
 しかし、もう一つの氷のうを破って私の口に氷を入れてくる人がいました。看護婦で二歳年上の吉田いくさんという方でした。吉田さんは私にこう言いました。「あんたは死んではいけない人なんだ」。

【「ある別れ」】
 看護婦の吉田さんとは、入院する前から面識がありました。それで私がなぜ入院したのか事情も知っていた。退院後、通院していた時にもところてんやせんべいをくれたり、良くしてくれました。私ばかりでなく朝鮮人に差別なく親切にしてくれた。あの時代としてはめずらしく理解のある人でしたね。
 退院してからもぶらぶらする生活。私はもう日本にいてもしようがないと思い、帰国を決意しました。指導員は「帰さない」という。「どうしても帰さないなら自殺する」と言ったもんだから、これは大変なことになると思ったらしく、労務係から間もなく帰郷証明書が発行されました。この証明がないと、下関までの切符が買えません。しかし帰国の旅費はもらえず、預金も返してもらえませんでした。
 「おまえが帰ったらわれわれはどうなる」という友達に、「身体がこうなので何もできない、みんなの邪魔になるから帰してくれ」と頼みました。友達は三、四百円の餞別を集めてくれた。国に帰ってからもしばらくは生活ができるぐらいの大金です。どぶろくを買ってきて寮で送別会。みんなでアリランを歌いました。
 寮を出て駅に向かうには、小田踏み切りを通らねばなりません。そこを渡ったとき、万感胸に迫ってきました。「これで日本とさよならか。今度はいつの日かわからないが、絶対無意味には帰ってこないぞ」。
 東京駅には、ひとり吉田さんが見送りに来てくれました。出発の前日になって「明日帰るから」と言い出したところ、「私も行く」と。吉田さんには事前に友達が連絡していたようです。当時、強制連行の朝鮮人が日本人女性と付き合うなんて、とんでもないこと。お互い純真だったので友達からはうらやましく思われていました。
 夜出発の汽車まで長い時間がありました。いろんな出来事が思い出され、胸が詰まってあまり話ができませんでした。時間が迫ると吉田さんは私に駅弁を持たせようと走り回ってくれました。泣かれました。ホームの柱の影からしんみりと見送ってくれました。
 吉田さんには国に帰ってから手紙を出しませんでした。十八歳の私でしたから、日本でこんなにまでやられたとの感情の方が強く、女性であろうと男性であろうと日本人は憎悪の的で信じ切れなかった。解放後は生活に追われ、また朝鮮戦争が始まり、軍事クーデターが起こって日本に行ける状態になかった。気にはなりながらも、時がどんどんたっていきました。
# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:16 | 関連1. 第一次訴訟

「我が人生 我が道」金景錫(上)

【「麦峠」】
 私は、一九二六年四月二七日に韓国の南部の慶尚南道昌寧郡昌寧で、金家の三男二女の次男として生まれました。先祖は両班という、文武の官僚に任じられた金持ちの特権的身分だったようですが、私の育った頃は経済的基盤はありません。父親はお酒のみで、母親の農業と六歳年上の兄のわずかな収入で生活をつないでいる状況でした。
 昌寧はかつての新羅と百済の境界地に位置します。人口三万人の郡の中心地でしたが、特別な産業も港もありません。鉄道もなくへんぴな所で、ほとんどが農家でした。
 一九一〇年に朝鮮総督府が設置され、土地調査事業が本格的に開始されて、何月何日までに土地を登録しなければ政府のものになるというかってな法律が作られました。「自分の土地だからそんなことしなくても」と思っていた、あるいは何も知らなかった農民たちの先祖伝来の土地は紙切れ一枚で奪われ、ほとんどが自作農から小作農になりました。
 私次が少年の頃は産米増殖計画(一九二〇年)に基づく米の供出というのが大きな負担でした。面識人(村役場の職員)が畑に行って農作物を全部調べます。稲作が五石とれると判断したら「おまえは五石を政府に納めよ」と決める。自ら作った米を食べることはできず、供出米は安く買い取られて高い配給米を買わされる仕組みでした。
 農民たちの生活は、麦の刈り入れ前にはほとんどの食料が途絶える状態。今年は生きてこの期を越せるだろうか、これを「麦峠」と呼んでいました。
 何年も雨が降らず日照りが続いたため、少なからぬ人々が開拓団という名で家族ぐるみ「満州」へと追いやられました。そこへ行った人はまだましな方で、年寄を抱えた人などは行けない。それで近くの日本に出稼ぎに行き、炭鉱や工事現場で働きました。日本に行くには警察の渡航証明が必要ですが、“親日”であることが要件です。しかも労働力となる本人のみで家族はだめ。残された家族はわずかな送金で飢えをしのぐ生活でした。
 昌寧はそういう土地柄でした。

【「無言の逆らい」】
 学校は地元の昌寧小学校です。校長は山口県出身の亀崎、担任は鹿児島県の山下という日本人でした。先生はゲートル巻きの戦闘帽姿。私たちは毎朝、「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌わされました。
 校内には小さな神社が作られ、朝夕、神社参拝。皇居の方角にある神社に最敬礼します。やらなかったり、そっぽを向くと殴られました。しかし私たちは皇居や神社が何たるものかわからない。朝鮮人の先生に「あの神社の中に何が入っているか」と聞いたら、「三種の神器の鏡ぐらいだろう」と。鏡に向かって、朝に夕に何故お辞儀しなければならないのかと思いました。
 覚えなければならなかったのが「朕思うにわが皇祖高宗」といった教育勅語です。学校ばかりでなく町の中でも、日本人の先生に見つかると「おい、お前こっちに来い。教育勅語言ってみろ」とやられます。できないと大変なので誰もが空覚えしました。
 教科書には天照大神が天の岩戸を開けて光が射し込む挿し絵が載っていて、天皇は万世一系だと教えられました。担任は「天皇は神である」と常々言っていました。
 ある日、先生が「大きくなったら何になる」と聞いたことに、友達の一人が「私は天皇になる」と言ってしまった。「おそれ多くもけしからんことを」と怒られ鞭を打たれ、しばらくは先生たちからいじめられたようです。
 私は学校では日本語、作文、算数が良かったと思います。それでしばしば教壇に上がらされ、発表したり解いたりすることがあります。ところが話しているうちに、つい「一升ビンに水二升は入らない」と言って日本式の押し付けを批判する。そのため教室から連れ出され正座させられました。
 担任はまるで犯人でも捕まえたかのように横にいて、他の先生が通るたびに私を殴ってみせます。通りすがりに「こいつが例のあいつか」と言ってはげんこつをする先生も。日本人と違って私たちにとって正座は拷問のようなものです。日本人がやって来てどうしてこういじめるのか、私たちの祖先がどんな悪いことをしたというのか、どうしてもわかりませんでした。
 小学校は二種類あって、私たちは普通小学校。日本人の旅館や新聞支局の子どもたちは尋常小学校に通っていました。秋の運動会は一緒にやりますが、絶対に負けるなという意識が強く、いつも大喧嘩になりました。サッカーの試合ではボールを蹴るより相手の向こうずねを蹴る方が多かった。誰かが教えたわけではない、無言の逆らいでした。

【「鬼童」】
 村全体でもサッカーが盛んでした。とはいってもお金がないので屠殺場に行って牛の胃袋をもらってくる。空気をつめて膨らまし、ひもで縛ってボール代わりに蹴り飛ばしていました。結構割れないものです。専門の靴もないので、わらじを履いてやりました。
 試合は十一人ではなく数十人でやるので、敵味方もわからない。そんなことはどうでもよく、とにかくボールを蹴飛ばしたほうが勝ち、というものでした。
 年に数回の村の市には地方から民族衣装を着て、朝鮮伝統のちょんまげを結った人々が集まってきます。すると日本の巡査が捕まえて「非国民だ」と言い、その場で髪の毛を切り落としました。朝鮮には、髪といえどもおろそかにするなという儒教の教えがあります。髪を切られることは大変な恥辱だと、中には自殺した人もいました。
 着物は、男性も女性も白い服を着るのが正装です。市に白い服を着てきた人々に、黒い塗料の付いたホウキで汚してまわる日本人巡査を目撃しました。子どもなりに悔しい思いをしました。朝鮮民族の表れは一切許されなかったのです。
 私たちが通った小学校は義務制の尋常小学校とは違い、お金を徴収されます。六十銭の授業料と一銭の国防献金です。六十一銭を払わなければ、通信簿がもらえない。なんとか払って手にした通信簿をみると、私のことが「鬼童」―鬼の子と書かれていました。
 ある時、父親を呼びだす手紙を学校からもらいました。渡してもしょうがないと、封を開いてみました。「鬼童について相談があるからちょっと来い」と書いてある。先生には、父は忙しいとか病気だとか二、三回ごまかしているうちに、ばれました。罰として掃除道具を入れる教室の床下に入れられたものです。他の子をよく殴る、言うことをきかない、それでいて勉強はやる。手に負えない奴だと見られたのでしょう。
 しかし、私たちをかばってくれた先生もいました。確か近藤という先生だったと思います。家に来い、とよくかわいがってくれました。羊かんやあめ玉などくれました。その先生は数学なんかもすぐ解いて実力のある人。どんなことがあっても生徒を絶対殴ったことのない先生でした。
 学校には朝鮮人の先生もいました。朝鮮語を教えていた先生でしたが、授業中、警察がやって来てみんなの前で連れ出されました。そのまま帰ってこないので後で聞いたら、縄で縛られて連れて行かれたらしい。その先生、実は解放後に刑務所から出て国会議員にもなった人でした。

【「奪われたことば」】
 野蛮な植民地政策は、南次郎という人が第七代朝鮮総督になった小学校三年生の頃から激しくなりました。総督は歴代、軍人です。南は時の陸軍大将で関東軍司令官でもありました。
 「皇国臣民の誓詞」というのが制定され(一九三七年)、「一、私どもは大日本帝国の臣民であります」。これをやらないとお米や麦やゴム製の靴など配給されない。配給がないと生活ができないので、誰もが無理やり覚え込みました。食器は真ちゅう製ですが、これは砲弾にするといって全部持って行かれました。
 正月を前にして貧困底をついて、何も買えない。せめて正月の朝ぐらいはお米をたくさん出さなくてはと、母さんは一張羅の晴れ着を日本人の質にそっと入れ、三円とか借りてきたようでした。
 小学校五年頃になると、それまでは希望すれば教えていた朝鮮語の授業もなくなりました。学校ではもちろんのこと、家に帰っても朝鮮語を絶対に話してはいけないと言われました。「日本語がわからない父さんと話すときはどうするのか」と聞くと、「それでも日本語を使え」と。
 小さな罰金札を各人二十枚持たされます。もし話の途中で朝鮮語が出たら一枚ずつ取り上げます。中にはたちの悪い友達もいて、私の家の前で名前を呼ぶんですね。こっちは安心して「うーん」というと、「うーんと言うのは朝鮮語だ」といって札を取り上げる。小さい子ども同士が相互監視するシステムが作られました。
 そのうち算数・理科・国語などの授業もなくなり、近くにある農作物の実習地に行って麦や芋を作ったり、人糞を担いでいって撒いたりするようになりました。
 私の学校には卒業後、続けて通える二年制の農業補習学校があります。そこの先輩たちが、日本人の先生があくどいことをするから学校を辞めると、今で言うストをやった。私は、迷惑な話ですが、学校から離れた場所に逃げて遊んでいた先輩たちに見込まれ、使い走りです。そのことでまた、先生からにらまれて、殴られました。
 「独立軍が現れるかもしれない」「大きくなったら独立軍に入るんだ」と言っていた子もいました。独立軍は、鉄砲を担いで日本人と派手に戦いをやるので羨望の的になっていたようです。
 父さんから聞いたおじいさんの話も記憶に残っています。一八九五年に朝鮮の皇族の閔妃が日本兵に殺されて焼かれるという悲惨な事件があった。
 「そんなことがあってたまるか」と、おじいさんは嘆いた。白い喪服を着て、竹づくりの白笠をかぶって、南からソウルまで歩いていき、泣いてお悔やみをしたということでした。

【「金城」という名】
 父さんは「書生」でヒゲをはやした硬骨漢でした。私たちを集めて「お前たちは新羅の王様、敬順王の末えいに当たるから、行いを正しくし、いずれわが国の王様が統治する時までみっちり学問を仕込んでおくように」と言いました。村の金持ちたちには「お金だけが人生ではない」と言っていました。国防献金など出して威張っていた人たちからも「あの人にかかったらかなわない」と見られていたようです。
 父さんはカラスに向かって「こっちに来て酒を飲んでいけ」と話しかけるほど酒の好きな人。見識はあっても物持ちではない、収入のない貧乏書生でした。いわゆる両班階級のなれの果てが父さんの現実の姿であったと思います。
 私が十四歳、小学校を卒業する頃です。「氏」を戸籍に記載するため、朝鮮戸籍の記載方式を改定する朝鮮総督府令が出されました。創氏改名と呼ばれているものです。
 父さんは抵抗しました。韓国の家族制度は、日本のように同一戸籍の家族集団を示す「氏」というものはなく、一族の先祖の発祥地名と男系血族系統を示す「姓」による親族集団によって構成されています。そこに「氏」が入ってくるわけですから、家族制度に異変が起こることになる。大変なことでした。
 それでも結局変えざるをえなくなり、父さんは故郷の親族みんなで話し合って「城」という氏を創ることにしました。慶州は昔、月城(ウォルソン)と呼ばれていました。その一字をとったものです。これも抵抗の表れでしょうか。
 以来私は、「金城(かねしろ)景錫」という名前に変えさせられた。悔しかった。どうせなら、野良犬が連隊長になっていく漫画『のらくろ』が好きだったので、そんな粋な名前にでもと思ったものです。
 面長(村長)は「頑固な金が姓を変えたぞ、みんな習え」と村中言って回ったそうです。嫌で変えなかった人、無知で変えなかった人も「あの人が変えたのだからしょうがない」と。
 李さんは字の上の木を使い村をつけて「木村」という名前になった。金さんは田や山や川をつけて「金田」「金山」「金川」になりました。日本が作った戸籍には金を消してそこに金城と簡単に入れましたが、それは彼らの勝手で、何百年続いた私たちの家系図はそのまま残しました。
 私は、おじいさん、父さんと村一番の「反日不逞鮮人」の環境の中で育ったようです。

【「尽くした母さん」】
 父さんが収入のない生活だったので、ある金持ちの人が「それじゃ困るだろう」と田んぼを小作するよう言いました。しかし父さんは神様のような存在、結局、母さんに小作の仕事をやらせました。
 父さんは兄貴を、次の世代を継ぐ者だからと学校には行かせず、幼い時から漢字の塾に通わせました。「両班の家には学者がいなければだめだ」と。
 食事をとる時も父さんと兄貴が一緒で、石で作られた膳にご飯を乗せて食べました。おいしいものはみんな兄貴に食べさせた。待遇はすばらしいものでした。母さんや私たち兄弟は残り物を地べたにおいて囲むようにして食べました。
 私たち兄弟はみんな三歳違いです。私が十四歳の時、兄貴が二十歳で姉さんが十七歳、妹は十一歳、弟は八歳。みんな育ち盛りなのでおなかが空く。ですから母さんは、よく生きていたと思うほど自分はほとんど食べませんでした。
 部屋は二つありました。台所の方で薪を炊いて煙を床下に通し、外へ排気するオンドル部屋です。しかし、今のように暖かいお湯を通すものとは違います。昌寧は冬になると冷え込んで大変寒いところ。母さんは私たちの布団の端を押さえるようにして、自分は何も掛けずに部屋で見守ってくれました。
 父さんは夜中でも酒を買ってこいと言いつけます。母さんはすぐ飛び出すのですが、お金がない。知り合いに買ってもらって、あとでその家に行って仕事を手伝っていたようです。
 父さんが外でお酒を飲んでいる時、母さんは私たちを寝かせて、泣いていました。夜中、ふと目を覚ますと、泣いているのをよく見ました。母さんは、夫のため子どものために自分を犠牲にする、尽くすことを本分とするような人でした。
 小さいころ、本を読んで汽車というものを知り、汽車に乗ってどこか行ってみたいといつも思いました。寝てても汽車の走る音が聞こえてくるようでした。それである日、母さんにねだって小遣いをもらい、馬山(マサン)に行ったことがあります。でも、旅館に泊まるお金もないし、淋しくなってその日のうちに家に帰りました。
 母さんは私にとっては、どんなことを言っても怒らないやさしい人でした。父さんが怖い存在だったので、母さんまで恐かったらそりゃあ大変だったでしょう。

【「留置場の父」】
 父さんは戸籍から兄貴を外し、私を長男に見立てました。一九三八年に「国家総動員法」、三九年に「国民徴用令」が発動され、ものすごい勢いで動員が必要とされてきます。父さんは、長男である兄貴を軍隊に入れたり徴用に行かせまいと、わざと籍から外したのでした。
 ところが、村の区長がこれを警察に告げ口しました。父さんは日頃から「なぜ日本がわが国に入ってきて大きな顔をして歩いているのか、けしからん」と、当時の朝鮮統治に反対する発言をおおっぴらにやっていたんです。
 道知事は、ことあるごとに治安維持法を持ち出して取り締まっていました。父さんも、「けしからぬ不逞鮮人だ」と拘束されました。二十九日間は警察署長が自由に拘束できます。よく捕まって留置場に入れられました。
 私は日本語ができたので、ある日、父さんに会えるよう留置場の当直の日本人巡査に非公式に掛け合いました。巡査も「小さいのに日本語がうまく話せるものだ」と、妙に感心して会わせてくれました。
 木の柵の奥の方で縮こまっている父さん。その痛々しい姿に小さな胸も衝撃を覚えました。父さんはお酒を飲んでは言いたいことを言っていたが、それが何の罪になるというのか、不思議でなりませんでした。
 父さんに「不逞鮮人」というラベルが貼られると、学校での日本人の先生の態度も変わってきます。いろんな所でいじめられました。先生からはいじめられ、帰ってからはいつも父さんに怒鳴られ、不満だらけでした。汽車に乗って都会へ出る夢をよく見たのもそのせいでしょう。
 小学校を卒業してから都会に出てもっと勉強したかったのですが、貧しい生活ではそれもかなわない。それならと、卒業後、遠くに行けるチャンスのある自動車会社に勤めました。当時は木炭自動車ですが、私は車の掃除をしたり木炭を入れたり、助手として働きました。
 私は日本という所にも、うすうすながら関心を持っていました。田中絹代の『愛染かつら』を観て泣き、『大石内蔵助』『森の石松』を読んで意気に感じました。田舎には日本に出稼ぎに行っている人が多く、その人たちへの手紙の代筆など頼まれてやっていたので、近くに感じました。もちろん学校の日本人の先生や巡査は嫌いでしたが、実際はどんな所か興味があったのです。

【「兄貴の身代わり」】
 戸籍から兄貴を外したという理由で、父さんは留置場に結局四か月間ぶちこまれました。治安維持法によって警察署長が二十九日間留置するのですが、いったん釈放してはすぐまた捕まえるというやり方でした。
 警察から出てきた父さんは、兄貴を末の妹の後にして戸籍に名を入れましたが遅すぎた。炭鉱労働に従事するようにとの兄貴あての命令書が届きました。
 兄貴は普通小学校には行かず、村で一つしかなかった漢学の塾に通っていました。たいへん優秀で二十歳の頃には先生をやっていました。塾には四十名ぐらいの生徒がいて、その父母から授業料代わりに麦やお米がわずかばかりもらえました。一段階を終えるごとにいくばくかの謝礼も受け取ったようです。
 塾では孔子の教えを説いたり、民族思想が強く出る。植民地支配を進める日本にとって塾は邪魔。そこで、塾つぶしとして兄貴が狙われたのでしょう。
 兄貴に徴用命令が出されてからというものは、父さんの嘆きは日毎に増しました。「くやしい、くやしい」と言って、酒浸りになりました。私は見るに、見かねて決心しました。「私が代わりに行こう」。
 命令書は面長(村長)が出します。川村仲太郎という面長に会って頼みました。「私の兄さんは体が弱いし日本語を一言も話せない。私が代わりに行くから兄貴は行かせないでくれ」と。父さんも人を介して「次男を出すから長男だけは勘弁してくれ」と何度も頼みました。
 ようやく願いがかなって了解されました。兄貴の徴用命令書を面事務所に持って行き、返しました。そこで私は「日本に行ってから、絶対に変なことをやらない」といった誓約書を何枚も書かされました。それから面長が書いた行く先の紹介状を渡されました。その時警察は「お前の兄貴は許してやる」と言いました。
 当時日本鋼管は京城(現ソウル)のある京畿道方面から労働者を集めていたのですが、員数が不足したので南の方にも声をかけたのでしょう。私は紹介状と旅行証明書を持って大邸(テグ)から京城へ、九時間かけて行きました。
 黄金町二丁目(現在はソウル市乙市路二街)の京城職業紹介所の庭に集合した朝鮮人は百名。担当者が「朝鮮語を話すな」「大声を出すな」「列を乱すな」「連絡船に乗るときは大きな声で自分の名を名乗れ」などと注意しました。三、四人単位にまとめられ「いつも一緒に行動しろ、一人でもいなくなれば皆の責任だ」と言われました。京城から釜山(プサン)までは汽車に乗せられました。
 兄貴が日本に連行されたのはそれから一か月後のことです。

【「金と命の交換会社」】
 釜山までの汽車には他の乗客はいません。窓からは外が見えないようになっていました。便所に行くにもいちいち届けなくてはならず、駅のホームに出ることも許されませんでした。車中で連行担当の係員から「川崎の日本鋼管に行く」と聞きました。
 釜山から下関までは連絡船。乗船するとき私は、名簿を持っている憲兵から「かねしろけいしゃく」と呼ばれました。下関からは汽車で川崎に向かいました。
 第二報国寮という所に百人が入れられました。畳の部屋もあるし、布団もある。赤い花柄の派手な布団だったので「立派な布団ですね」と聞いたことを覚えています。近くの色街から調達した寝具だったらしい。心配していたよりいいじゃないか、それが最初の印象でした。十六歳の時でした。
 私が配属されたのは第二製鋼課で、クレーンの運転です。転炉は、すごい風圧で下からカーボンを通して空気を吹き出す。その摩擦で鉄の熱を上げる。そこへホイストクレーンで二・五トンの生石灰を真上から下ろす。下手をするとクレーンもろとも熱風を受ける。日本人はあまりやらない仕事でした。
 十五トンのクレーンの運転もしました。下には鉄の湯が煮えたぎっていて汗が出るので、塩を食べて上がります。炉が空気を吹き出すと、埃も舞う。マスクなどはありません。一昼夜働くと、鼻も耳も顔じゅう真っ黒になりました。
 一日十二時間、土曜日は十八時間働きました。一週間毎昼夜の二交替制でした。三か月たって二十五円か二十七円くらいもらったでしょうか。日本に来るときに、月八十円と聞いていたのでえらく違います。愛国貯金とか共済会費とかなんとかで天引きされたようです。
 食事は、麦と若干のお米とうどんくずが一緒になったものをお椀に入れて、具のない味噌汁をぶちこんで食べました。たまにたくわんが出ることもありましたが、それにしても座って食べるまでもないような粗末な食事でした。
 仕事が終わると一旦は寮に戻り、許可がなければ外出はできません。お腹が空くので頼んで食費稼ぎに働きに出かけました。何々組とかのトラックに乗って荷物運びです。白米の弁当が出たし、帰りには電車賃も出る。朝鮮人だからと、二~三円の安い日当でしたが、足しにはなりました。工場の前には朝鮮人部落があった。そこの食堂で白いご飯とホルモン焼きが出る。それがせめてもの栄養の補給源でした。
 ある日工場で、平炉の上のトタンを修理していた人が、酸化して腐ったトタンを踏み抜いて落ち、黄色い炎となって即死したのを目撃しました。月に約二十人が事故死していました。
 日本鋼管の歌に「義理も堅けりゃ人情も厚い、鉄で鍛えた心意気」といった歌詞があります。しかし私たちは替え歌で、「金と命の交換会社」と歌っていました。

【「立ちしょんべん」】
 日本鋼管の寮では四畳半に五人が押し込まれました。川崎はノミの多いところ。畳を上げるとぱたぱたとノミが飛ぶくらいです。夜もなかなか眠れません。
 手紙は検閲されました。手紙を出すときは日本語で書くように言われ、指導員の検印が必要です。家からきた手紙は指導員が開封した上で渡されました。軍隊帰りの指導員には「南京攻略に参加してチャンコロを何人殺した」などと脅すたちの悪いのもいました。
 若くて、他にやることもなかったので喧嘩はよくやったものです。工場現場には、吉田梅蔵という組長の、われわれとちょうど同じくらいの子どもが日本人試験工として働いていた。そいつが「何をー、この朝鮮人」とよく言うものだから、しゃくにさわって「お前と俺のこの小さないさかいは、やがては民族の血の闘争と変わり得ることを知らないのか」と言い返した。われながら、小さい子がよくもそんなことを言ったもんだと思います。
 そのことをおやじに告げ口したらしい。私は組長に呼びだされ、「現場がたいへんなことになるから、そんなこと言うな」と叱られました。知らず知らずのうちに私も民族としてのプライドを発揮するようになったのでしょう。
 たばこは週に十本くらい、酒は月に一合の配給がありました。酒は、毎月八日になると、天皇がアメリカに戦争を宣言した記念すべき日だからといって、くれました。あるとき、酒をもらいに行ってこいと言われ、行ったまではよかったが、帰りに一升全部飲んでわからなくなってしまった。組長から「おまえは相当のばかだ」と笑われました。
 たまの日曜日の午後に休める時間がもてました。以前から、浅草と靖国神社が頭にこびりついていて、一度は行ってみようと思っていました。浅草は講談の本によく出ていたし、靖国はみんなからもよく聞いたので、どんな所か関心があった。
 靖国神社には憲兵派遣所がありましたが、そのことを知らない私は、裏側で立ちしょんべんをやった。「とんでもないことをやったな」といって捕まえられました。不審な者だ、どこの者だと、油をしぼられた。これはまずいと思い、とっさに「私は天皇陛下のために死にます」と、えらいことを言ってしまった。すると「ひもじいだろう」と言って食事が出され、解放されました。
 後で分かったことですが、韓国の方までこの件で身元照会が入っていたとのこと、びっくりしました。
# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:14 | 関連1. 第一次訴訟

日本の戦争責任を問う(下)

  日本鋼管への強制連行とストライキ
 私も日本鋼管に労働者として強制徴用され、五〇トンのクレーンを運転していました。当時一九四二・三年は、日本の戦局が最も苛烈な時期でありまして、日米戦争が始まって間もなく、日本の若い青年達は前線へ、前線へと、赤い紙切れ一枚で動員され、昼夜の区別なくたくさんの人が命を落としていた時代であります。
 ですから労働現場の方もそのあおりをくって、ほとんどの若い日本人の青年達は現場にはいませんでした。年寄の日本人と、高等学校の若い養成工の日本人の手で動かしていて、そこに我々が加わって、重工業の中で最もきつい仕事である製鉄の仕事をやっていました。
 が、彼らは我々の労働力をむさぼるだけでなく、人格をむさぼり、人権を踏みにじりました。会社は朝鮮人青少年達に対して非常にあくどい、悪意のこもったパンフレットを出しました。それには半島人条項として、いわゆる朝鮮出身、植民地出身の青年達はあまり仕事ができない。技術の修得がおそい。日本人の青年が二人でやることを五人で掛かってもできない。水をがぶがぶ飲む。水を飲むからおなかをこわす。出勤率が悪いとありました。
 ところがたまたまそれが私の目にとまり、それを回し読みして、こういう扱いを受けるならば、もう現場を放棄して仕事をしないほうが楽なんだ、家へ帰してくれ、我が国へ帰してくれと大食堂に集まり、二〇〇〇〇人もが一斉に、一人も抜けることなく整然と集まって、会社に申し入れをしました。
 製鉄は高炉も止まり、転炉も止まり、直結モーターも止まりました。ふつう三万五千トン級の軍艦の主砲を造っている所がありました。いわゆる大砲のくり抜きをやっておりました。それがとまってしまったので、その後軍艦は、それを積む予定だった軍艦はそれを積まずに出港して、マレーシア沖合で撃沈されたという「幸運」があったそうであります。
 ところが、これだけやっかいなものだったら国へ返してくれ、「我が国へ帰してくれ」という「我が国」がたたって、「植民地の人間が大きな口をきく」とか「思想的な言葉を吐く」ということになり、相当数が検挙され、私もその中の一人としてひどい拷問を受けました。今でも皆さんがお見かけのとおり、私の右の肩はちょっと左より下がっております。天井につるされて、五日間ぶっ通しで拷問を受けたからです。
 私たちは会社に抗議を申し入れたのが、いつの間にか独立運動に変わってしまった。独立運動がそんなに簡単にできるものじゃない、おっかぶせたわけなんです。独立運動者になるとですね。当時の状況で植民地の者が独立運動を口にすることはすなわち死を意味することなんです。
 実際に我々を毒殺しようとか、裁判なしに殺そうとしました。書類上だけでも当時検挙された首謀者とされた十五人のうち、二人はいまだに行方がわかりません。だが実際の行方不明は二十人をはるかに超えています。その後うわさに聞くところによれば、殺されて海に放り込まれたとか、誰もみかけた人はありません。風の便りに殺されたということは聞いております。
 どうして私は生き延びられたかといいますと、同僚のおかげです。じゃあこのストライキを解散するからということで解放されたんです。

   対企業裁判に立つ
 そして五〇年の節目を迎えた一九九二年。戦後問題をなんとかして表に出して、きれいに謝罪を受けるなりけりをつけた方がいいじゃないのか。そういう趣旨で、私共は企業相手に、強制連行に対する企業の責任を問うて、東京地裁に日本で初の企業相手の訴訟を出しました。それがNKKいわゆる金と命の交換会社、日本鋼管のことなのです。
 最初は平成の初めか昭和の終わるころなんで、よくもあれだけのことをしておいて安らかに死んでくれるなと思いました。そして日本の国会図書館に行きますとその資料を見つけたので、その晩を明かして訴状と言えるほどのものでもないし、訴状らしきものを書いて、東京地裁へ出しました。
 そうしたらとてもきょとんとしたような顔をして、まあ一応訴状と名の付くものは、間違っていても間違いとして、受け付けなければならないということで受理されました。そして、それが伝わって、東京のある弁護士さんがこれはたいへんだ、この戦後問題はだれかが壁を打ち破らなければならないとは考えていたが、お前さんがやった以上はこの裁判は勝たなければならないということで、弁護士さんが九人ほど集まって、文字通り手弁当で助けていただくことになりました。
 一審の方では「暴行は認める。だが損害賠償の方は時効と免責条項では今請求してもどうにもならない」というような判決が下りました。そして東京高裁で勝利和解をしました。

   厳罰に値する不二越の戦争責任
 その翌月になってこの不二越裁判も一緒に東京地裁へそれを提訴しましたが、不二越はまだ富山に健在であるということなので、訴訟の技術上これを富山に移しました。
 訴訟を出す前に私は九二年六月二三日、富山へ一人で行きました。総務の中田という人に会って、李鐘淑さんが持っていた当時の社内貯金の証明書の実物を示して、未払賃金を払ってくれと言ったんです。しかし「なにしろ、昔のことでね、私の生まれる前のことでしてね」としらを切りました。
 そのお金はどうしたのかと言ったら、「供託の方でしたか。なんだかわかりません」とあいまいな言葉をにおわせたので、とうとうごうを煮やしてその年の九月三〇日、提訴に踏み切りました。不二越は自分の月給をもらうために訴訟を起こしても、支払おうとしない。そういう会社のカラーなんですかね。
 私は先日不二越のことを研究しました。彼らはいわゆる戦犯企業であると私は見なしております。
 戦争を遂行するためには、兵器、その他あらゆる物資が必要であります。軍隊は素手では戦争ができない。その血に滲んだ手に、鉄砲を持たせたのが財閥であります。ですから日本の財閥は、決してアジア侵略の責任から免れることはできません。その一つが不二越であります!
 かれらは、魚雷を造ったという記録もあります。あらゆる兵器を造りました。海軍省や陸軍省から「これだけのものを出せ」といわれ、人手が足りないといって、朝鮮から国民学校の生徒であった少女たちを、狩り出してきたのが不二越の強制連行の実態であります。
 裁判で明るみに出ましたが、不二越の女子挺身隊の女の子たちを、夜な夜な軍人たちが連れ出して、一体何をしたのか!昼間は労働力を貪り、夜はその肉体を貪った!不二越は厳罰を免れない。それをよくもわれわれの追及に対して、知らぬ存ぜぬとは。かれらの鉄仮面の仕種に大きな怒りを感じるのであります。少女たちを「女子勤労挺身隊」と呼びつつ、夜は従軍慰安婦に対する以上のあくどいことをし、軍の機嫌をとり、莫大な金儲けをしたのが富山不二越であります。
 この不二越が、五十年経って、当時を偲びながら訪れた、何人かの女性工員たちを門前払いしました。その門前払いの意図はもう判っています。もし彼女たちを近づければ旧悪がばれるからです。
 不二越は、「NACHI」という名で商品のトレードマークを作っております。「NACHI」の由来は、大阪博覧会の時、天皇にこの品物はよくできているというお褒めの言葉をいただいたことが光栄だということで、当時の天皇のお召し艦――「那智」から名を取って「NACHI」なんですね。
 今でもそれを使っておりますということは、軍国主義のその流れをくんで、「NACHI」という天皇の軍艦の名前で、社会へ商品を売り出しているということは、昔の栄華をもういっぺん夢見ようとする気持ちがその心底にあるのではないかと、私はそう思っております。ですから「NACHI」に対して、私は非常に大きな反感をもっています。
 富山は不二越の城下町といっていいほど、不二越の采配が、幅がきく町なんです。その地において、心ある人々によって支えられて、今日こんにちまで私たちはこの訴訟をやってきました。

   不二越は強制連行の責任を取れ
 もともと、私は不二越へ何回も訴訟以前に話をしよう、話して決めよう。それを何回もしましたが、彼らは元従業員に対して、自宅待機を命じたその元従業員に対して、門前払いをしました。こういうことは日本の企業の歴史上、その例を見ないと思います。それほど過酷な、差別の激しい企業が、不二越だと思います。
 彼女らはここにいますが、爆撃がどんどん激しくなると、朝鮮半島へ分工場を作るという理由でもって、夜中にたたき起こして木造船に乗せて、日本海を渡り海の向こうへおっぽり出しました。
 もし人情というかけらでもあれば、彼らは帰す時に社内貯金、今まで貯めた預金なる月給を渡すべきなんです。それを社内貯金という理由で全部ふんだくりました。手帳にそれを書いて渡しました。家に帰って一ヶ月したらお前達は朝鮮の工場で働かせるからという理由でしたが、そのまま解放――終戦になりました。
 その後彼らは、ただの一回も自宅待機の中止を命じたことはありません。私は不二越に言いました。彼らは今でも不二越の社員であると。自宅待機の解除はされていないんです。
 崔福年さんは、当時十三才の子供でみかん箱に乗って旋盤作業をしました。それが不幸にも指を切られました。人差し指をですね。指を切られたその日から、彼女の人生は変わりました。
 今も昔もそうだと思いますけれども、指を切られた少女の結婚相手というものがそう簡単に見つかるわけにはいきません。とうとう結婚相手が見つからなくて、二十才も年上の人に、こどもを残すための道具立てとして結婚しました。悲惨な生活はそこから始まりました。
 もし当時不二越が、野戦病院式の治療をしないで、丁寧に治療をしたら指を切らずに済んだかもしれません。そういう人たちに対して不二越は門前払いをしました。果たしてこれが、日本人の人情であり良心であり得るでしょうか。
 戦犯企業だからこそこういうことをやりうると、私はそう思っています。彼らも人の子であり、我々もこの地球上に生を有する者である。植民地の国の人間だからどんな扱いをしてもいいという、そういうことは絶対にできないと思います。
 人は人であり、人の上に人なし、人の下に人なし。そういう例えもありますように、この不二越の悪辣さは、やがて正義の峻厳なる審判を受けるものと思います。
 日本国民の良心ある皆様が、一人一人輪を作って、この問題に取りかかってくれれば、必ず勝利の日があるものと、私は確信してやみません。

   再侵略への道を歩む日本
 甘い汁を吸って、味をしめた経験のある者は、「夢をもう一度」とあらゆる角度から植民地化の夢を見ているのかもしれません。ですから、今世界のどこかで戦争が起きれば、戦争物資を入れることができるから、ボロ儲けすることができると、日本はひたすら、世界のどこかで戦争が起こることを願いつつあると私は、そう思っています。
 日本の政府当局者なるものは非常に戦争好き、領土拡大主義なんです。独島は自分のものだと言っています。しかし大昔から我が国――大韓民国の領土として、日本の国会の地図にも、大韓民国の島、独島と書いてあるくらいなんです。その他にも、いろいろな資料があります。
 今日本は、アジア各国を植民地化してあまりある軍備をしています。日本の軍事力は世界のどこに出しても遜色のない、最新鋭の戦艦と最先端の装備を備えた戦闘機が山と積まれています。これは、日本国民を外敵から守るためではありません。日本にはあらゆる装備とあらゆる訓練が揃いすぎている!
 こうした不穏な日本の軍備の状況は、日本の皆さんはあまり気に留めていませんけれども、彼らに虐げられた民族と国家には、非常に大きな脅威となっております。
 日本は戦後五〇年間ひたすら経済発展に専念してきました。エコノミック・アニマルと言われるほど、アジア各国から絞り上げました。絞りとったお金があると今度はまた他の欲が出てきます。
 湾岸戦争で日本はお金を出したけれども人的貢献ができず、アメリカや各国からけなされました。円だけではだめだ、今度は軍事力が欲しい。そこで出てきたのが国連の常任理事国入りです。そうすれば世界のどこへでも、日本の軍隊を派兵できるようになる。そして弱い国があればそこを侵略することもできる。だから靖国神社への公式参拝やあらゆる暴言で、侵略戦争を正当化しているのです。
 我が国は、許すことはできますけれども、決して忘れることをしない民族であります。決して忘れません!これを知らない日本の政治家は、「日本人と似ているから、こうして押さえつければ黙り込むだろう」と思っている。“無言の抵抗”ということを彼らは知らない。非常に不幸なことであります。

   戦争責任に謝罪し補償せよ
 被害者一世が生きているうちに、謝罪し、補償し、未払賃金を出せ!というんです。我々が死んでしまえば、彼らは誰に向かって謝罪し、未払賃金を支払いますでしょうか。そのときには、もう我々はこの世には存在しません。それを私は率直に催促してるのであります。そういう過ちのないように。
 皆様今ご覧のとおり、彼女らは強制連行をお話しすると、胸が詰まるんですね。あまりの不二越の悪辣さに腹を立てて、百年闘争を宣言しました。もう五十五・六年たっています。百年先には私はこの世にはいないでしょうけれども、必ず、この不二越には目にものを見せる。その行いの過ちをただす。彼らは、その過ちのを治さない限り、彼らは永遠に歴史の前の前科者として、軍需産業、いわゆる戦犯企業として、名を連ねることは間違いありません!
 不二越訴訟。名は簡単。二人の女性と一人の男性が未払い賃金の請求、そして、指を切られた償いとして、いささかの金額を請求する、その訴訟でありますが、その意義は重大であります。これは、本当の意味での、隣同士のつき合いになるのか、ならないのか。その基礎にもなるし、不二越が栄えるか滅びるか、その境目にあると私は思っています。このような不道徳の、企業倫理の悪い企業がいつまでも栄えるとは、私は思っていません!
 日本の法律で、日本の国内で、日本人の手によって裁判が行われているということは、非常に私共に不利であることは重々わかっています。が、正義がある限り、皆さんのご支援がある限り、彼らは決してこの裁判をおろそかにはできないと思います。
 日本に来ること、この裁判で海を越えてですね。鉛のような心を抱いて日本に来ること、私五九回目でございます。原告の皆さんも、十数回に及んでいます。なけなしのですね、ここへ一回来るのにどれだけの苦しみを味わうか。彼女らにとっては非常に大きな負担でもあります。生活の糧になる日雇いにも出られないというような悲惨な実状も目の前に迫っています。
 こうした彼女ら元従業員に対して少しでも心あるならば、門前払いはできないと思います。
 強制連行一二〇万。死亡者四〇万。二〇世紀の非常に大きな悲劇であります。しかし日本製府はいまだにうんともすんとも言っていません。強制連行、強制徴用者にたいして、同じ職場で同じ日に同じ戦死をしても、植民地出身の人たちにはビタ一文と出していません。これが日本の厚生省のやり方です。これでいいでしょうか。
 まして従軍慰安婦問題では、乙女盛りの一八、九の娘たちをごまかしてトラックに乗せ、前線へ前線へと何万と送り込んで、列をなして強姦したのは皇軍という名のもとの日本の軍隊であります。その後裔たちが今、日本の政治をやっています。恐らく当人たち、もしくは今若手の政治家の父たちは、従軍慰安婦を抱いた経験が大いにあると思います。
 それを政府の責任にしないで、国民基金という名のもとに、国民から寄付金を、はした金を募ってですね、お金で済むことならこれでいいでしょうと、銭の威力をきかせようとしているんです。それでは通らないと思います。彼女らの憤念と恨みと恨(ハン)。それは金銭の問題では解決しない。
 ましてその昔、東京大震災の時、六七六二人、竹ヤリとこん棒で虐殺しました。それは日本の官憲の手ではなくて、日本の市民の手によってそれが行われました。
 「朝鮮人が井戸に毒を入れるから、朝鮮人を殺せ」と。官憲の保護のもとに監禁しておいて、裏口から市民たちに五人、十人と束にして渡したんです。それを土手の上に連れて行って、突き刺して殺した。
 その昔、豊臣秀吉はいわゆる朝鮮出兵ということをして、朝鮮の兵士の鼻を削いで祀って威張っているんです。今、京都の一番大きな堂の中に、鼻塚、耳塚というのが現在もあるんです。それが日本の歴史です。
 私共はいまだに一回も外国を侵犯したことのない国の国民です。夢にでもですね外国を侵犯した事実のない平和の国。白衣民族。その白い着物を重んじる白衣民族をなぜ日本はこれほどまでに、七百年間、何十回も、何百回も侵犯するのか。
 よくよく日本の政情が危うくなると、人気が落ちると我が国相手にいちゃもんをつける。本当の意味での両国民のつき合い、腹を割ってのつき合いはこれからだと思います。

   日本全国で戦争責任追及の闘いを
 私どもは対不二越百年訴訟を宣言しました。私どもはこの訴訟をやり抜きます。そして世界に訴えます。
 戦前の補償を戦後になって求める。われわれにとっては、大きな冒険でもあります。海を渡って、山を越えて飛行機に乗ってここまで飛んできています。いくらかもっていた財産も全額を使い果たしました。原告たちはこの裁判に出席するために、相当の金額を三ヶ月も四ヶ月もかかって、手に血を滲ませつつ貯めています。これは、「戦後の被害」でもあります。「戦前の被害」と「戦後の被害」これを知らない日本の政府、日本の企業。何を言われても厳と聞き入れないこういう集団がある限り、われわれは永遠に友達にはなれないと思っています。
  その中で、こういう支援の集まりが日本の津々浦々に広がっていくということが、私の最も念願していることであり、また本望でもあります。私の本心を言えば、日本の各裁判所に訴訟を持ち込んで、日本政府のお金をうんと食い潰したい。日本全国に強制連行の跡はいくらでもありますから。
 今からでも遅くない。日本政府、心せよ!さもなくば亡びよ!

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# by fujikoshisosho | 2008-07-12 14:11 | 関連1. 第一次訴訟


第二次不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会  連絡先  メールhalmoni_fujikoshisoson@yahoo.co.jp   電話 090-2032-4247 住所 〒090-0881富山市安養坊357-35


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